気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

今朝の夢

2018-12-28 19:53:36 | 
 明け方、うとうとしていると不思議な夢を観た。十数人いた登場人物はどれも知らない顔だった。最初の夢は和室に居た。隣の部屋との間には段差があり、そこにある窓の枠のような処から顔を出すと、小太りで気の強そうな女性が、一本タバコを差し出した。細くて長いそのタバコは美味しくなかった。
 次の夢は、中国へ留学する夢である。荷物を持って鉄の外付け階段を登ると廊下に出た。そこにいた人のよさそうな外国人留学生と中国語で話すと、彼は「気」の勉強をしていると言って、太極拳の「単鞭」の型を見せた。その後自分の部屋の前に来たものの鍵が無い。隣の部屋にアジア系の男女数人が入っていった。鍵を探していると、若い女性が中国語で話しかけて来た。「掃除の時に使う、こういう物がどこにあるのか知っていますか?」と箒ではく動作をしたので、箒を探していることは分かったが、私は到着したばかりで何も分からない。しかしどういうわけか、すぐ近くに箒が置いてあるところがあり、事なきをえた。鍵はその後、荷物をひっくり返して探した末、ようやく買い物袋のような袋に紐で結んであったのを発見した。
 中国に留学する夢を今までも数回観ているが、内容はすべて異なっている。しかしそれは決まって第一日目のことである。そういえば、母親が使っていた買い物袋に鍵が白い紐で結んであったことを今、思い出した。

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神社で練習

2018-12-23 16:27:20 | 「立つ」健康法

 家の裏山に神社があり、仕事の行き帰りなどで前を通るときには挨拶をする。気の澄んだ境内で太極拳をすることもある。
 太極拳をするには、まず立たなければならない。社や狛犬、周りの木々を前にして、キチンと立たなければならない。キチンと立てずに太極拳はできないからである。しかしキチンと立つことは難しい。上手く立てずに太極拳をせずに帰ったこともある。どうしたら上手く立てるのか。それは直接的に筋肉の力を抜いたり入れたりすることではなく、外形を整えることでもない。意識の使い方なのである。眼の前にある物事をどうとらえるか(考えるか)ということである(具体的な方法は又別の機会に)。そのような意識がからだを整えていく。
 
 ずいぶん前に気功の師に「山で練習すると、天狗がいろいろ教えてくれる」と言われたが、もちろんそれは実際に天狗が出て来て手取足取り教えてくれることではない。言えることはここで考えたり、発見したり、気づいたりしたことが、「立つ」ことを大事にする切っ掛けになったということである。

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フルートとピアノと太極拳

2018-12-15 09:41:11 | 「立つ」健康法
 先日、私の生徒でもあるピアノの先生と話していたら、ピアノの指導時に、太極拳や気功の基本を中心にした「からだの使い方」を教えているという。教わった生徒の姿勢が良くなり、肩甲骨を上手く使って弾けるようになったという。私にはピアノの経験がないから想像するしかないが、ピアノを弾く時には「腕」や「指」に意識が強く集まり、力も余分に入りそうである。そうなれば、全身のバランスが崩れてしまう。太極拳も同様、初心者だけでなく、型(形)が太極拳だと思っている人は、腕に力が入りやすい。私は生徒に「腕は胸の延長である(或いは肩甲骨から腕である)」と言っている。腕は何もしなくても、胸が左右に開かれていけば、その力が「肩→二の腕→掌」と伝わっていき、腕は動かされてしまう。もちろんその前提として丹田が上下するのだが。「腕は何もしなくても」と言ったが、キチンと力を抜いて、力が伝わってくるのを待っていることが大事なのである。同時に動かそうとしては、かえって腕だけの動きになってしまう。
 話をピアノに戻そう。言うまでもなくピアノは椅子に座って弾くものである。座ることによって、上半身と下半身の力が分断されやすくなる。椅子に腰かけながら、全身の力を揃えていくことが大事である。そのためにはまず「キチンと立つ」ことによって、全身が揃っている(整っている)感覚を磨くことである。そうして、その感覚を椅子に腰かけた時にも持ち込み、合わせて行けばいい。そうすれば、腕や指、或いは腰にも力が入り過ぎていることに気が付くことができるだろう。
 また私の教室にはフルートを演奏する人が3人参加している。フルートは言うまでもなく口で息を吹き込むことで音を出す楽器である。息は呼吸である。呼吸が意識の状態と関連があることは誰でも知っている。安定した意識が安定した息を送り込み、安定した演奏になる。フルートは、オーケストラを除けば、立って演奏することが多いだろう。「キチンとした立ち方」をすると、からだの中には空気が入っているように感じることがある。口や胸から息を吹き込むのではなく、全身の空気をフルートに流す。もっとも、フルートとからだがつながっている感じがあれば、「流す」必要もないのだが。
 いずれにせよフルートやピアノを演奏する人ならば、音色が変わったことで、からだとのつながりを発見できるのである。

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浅川で鮎釣り

2018-12-08 10:00:07 | 渓流・鮎釣り
 10月から、地元・八王子を流れる浅川で鮎釣りをしている。と言っても友釣りや餌釣りではなく、コロガシのように「引っ掛け」て釣るのである。浅い処に小さい鮎が沢山いるのだが、思うようには釣れない。鮎はこちらの姿を見れば逃げるし、竿を水上に構えただけで逃げる。たまたま現場で知り合った釣人と二人で挟むようにした時には、鮎が逃げ場を失ってよく釣れた。針をはじめ仕掛けについては、行きつけの釣具店のおじさんに教えてもらった。枝針を主のハリスに付ける、特殊な結び方を覚えてから釣果が上がった。
 ときどき土手を散歩する人たちが足を止めて、見ていることがある。そういう人たちには私から話しかけて会話を楽しんだりしている。渓流釣りにはない光景である。
 例年、鮎はこの時期には下って、いなくなるらしいのだが、今年は何故か残っている。




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何のために「立つ」

2018-12-02 07:57:27 | 「立つ」健康法
 私が「立つ」練習をしていると言うと、「何のために?」と問われることがある。一言でいえば、「自分らしく」なるためである。自分らしいココロとからだになるということ。人は社会生活の中で、周りの状況に合わせたりして、多かれ少なかれ自分を抑えて生きている。しかしあまり自分を抑えてばかりいると、本当の自分が分からなくなったり、緊張を抱えたまま生活することになる。
 「自分らしい」状態でいることは、そのまま健康法になる。何かを我慢していると、我慢が緊張になって、からだの上に現れて不健康になる。人は本来、何もしなくても健康なのが自然である。しかし「何もしなくても」というのは、「余計なことをしなければ」という前提があればこそである。人は日常の中で余計なことをしている。生きるために様々な無理をして、からだに負担をかけている。余計なことをしてしまうのが人なのだから、何か対策を取って、自然(自分らしい状態)に戻りたい。それが私にとって「キチンと立つ」ということである。 

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