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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

休めない「休め」

2016-01-29 09:36:40 | 「立つ」健康法
 小学生の頃、「気をつけ」に対して「休め」という号令があった(朝礼などで使っていた)。しかしこの「休め」の姿勢、実は「休む」ことは出来ない。私たちの学校では、片足に重心を掛け、もう一方の足を少し前に出し、軽く着く(左右対称に開くやり方もあるらしい)。しばらくすると、姿勢を変えたくなってくる。長く続けることが出来ない姿勢は、偏っているからである。腕を後ろに組むのも休めない原因だ。筋肉の緊張が続き、鳩尾(みぞおち)の力が抜けず、頭が緩まないのである。
 私なら、およそ左右対称に足を開き(人によって骨盤の開き具合や重心が違うから、きれいな対称にはならなくても良い)、腕を垂らし、余分な力を抜く立ち方をする。姿勢という外形を整えることよりも、力の抜き方が大事だ。
 高校生の頃、授業とは別に講堂で、瞑想の様に目を閉じる時間があった(月に1回位?)。どういう目的があったのか知らないが、多くの学生は寝ていたようだ。どうせやるのなら、毎朝10分程度やった方が身心がリセットできていい。立って出来れば尚いい。

シラッコ

2016-01-21 16:24:05 | 
 最近、小学校時代の友人や先生に会う機会が増えて、再び「シラッコ」という昔のあだ名で呼ばれている。誰が付けたのか、いつからそう呼ばれているのかもはっきりと憶えてはいない。おそらく小学校1、2年生の時からだろう。特定の友人しか使うことのなかった「シラッコ」が40年以上経って再び息を吹き返した。
 「シラッコ」を漢字で書けば「白っ子」。姓の「白石」から付けられたものだが、中国の思想家の老子や孔子と同じように「子」が付いているのが良い。あだ名は自分で付けられるものではないから、もし付けられたあだ名が本人にとって「まあまあ」以上のものならば、それは幸せなことだろう。

眼鏡の足音

2016-01-15 19:18:51 | 
 最近、眼が悪くなった。近くのものがぼやけて見えるから、老眼というのだろう。文庫本や新聞は読めるので、それほどひどくはないのかも知れない。髭が白くなったことよりも、髪が薄くなったことよりも残念だ。視力はずーと1.5位だったから、眼には自信を持っていたのかも知れない。
釣り糸を結べなくなったら釣りを止めるか、眼鏡をかけるか、そんな選択をする日も、そう遠くはなさそうだ。
 嘆いていてもしょうがない。残っている能力で生きて行こう。物は「眼」だけで観るわけではないのだから。

再び 「我は去る也」を読む

2016-01-08 09:07:42 | 野口整体
 野口整体の創始者・野口晴哉氏は、遺稿「我は去る也」で次のように言っている。
 「…五千年か一万年経し頃 又帰る也 又伝える也」
 なんて明るい言葉なんだろう!人類がまだ五千年か一万年、存続することを意味しているのだから。
 それまでの間、野口氏は何をしているのか。
 「我は休む也」。しかし同時にこうも言っている。
 「我が伝えしこと 授けしことを会得せば 次を伝える也」
 再び冒頭を読むと、「誰にも会うこと無し」と言いながら次のように言う。
 「我に会うと欲すれば 我に授けられる力あることを示し 我諾せば来る可し 諾さざれば来るに及ばず」
 「裡の声をきき 裡の動き 読める人にのみ 授け度き也」
 条件付きで、来ることもあり得ると。厳しい条件だからクリアできる人はそうはいないだろう。技術以前に野口氏と同じ方向を向いているのか。そして腕を切り落とさないまでも慧可が達磨に教えを乞うた時の様な覚悟があるのか。野口氏と向かい合って立ち、キチンと自分の生き方を述べることができるのか。
 
 野口氏はどのような形で現れるのか。恐らくそれははっきりとしたものではなく、気が付かないように現れて、協力してくれるのだろう。