気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

野口整体で、師から弟子への継承について考える

2014-10-26 12:35:45 | 野口整体

 臨済録(入矢義高訳注・岩波文庫)の解説には、唐代の禅における師から弟子への法の継承について、次のように書かれている。


「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上でなければ、法を伝授される資格はない」とされ、「師の法をすべて肯(うけが)うことは、師を裏切ることにほかならぬ」とまで言われた。


 当時の風潮が、何故こうであったのかは分からないが、少なくとも禅の発展には、よい環境であったと言える。

 日本では、師弟関係における師は絶対であり、弟子にとって師は遠い存在であった。結果として弟子が師を越えることがあっても、弟子がそれを望んでいたのかどうかは分からない。そういう環境の中では、師を越えるという発想が出づらいからだ。

 野口整体の創始者である野口晴哉氏は、ずば抜けた人間だった。才能だけでなく、技術も発想もすべて卓越し、手技療法の分野で、彼に並ぶ技術を持った人はいなかった。直接彼を知らなくても、残された文章を読めばそのすごさが分かる。彼の元には、多くの人が教えを受けに集まって来た。弟子たちは、超人的な師・野口晴哉をみて、どう思っただろうか。憧れを抱き、喜びを感じていたことは想像に難くない。

 最初はそういう思いを持ちながら学んでいくことも悪くはないだろう。しかしいつまでも特定の人(ここでは野口氏)を目標とすることは、どうなのだろうか。もちろん技術や思想を学んで、積み重ねていくことは大事なことではある。しかし、どんなに素晴らしい人や技術だとしても、目標がそこに止まっていれば、自分をそこに近づける作業に没頭し、一番大事なものを見失いかねない。自分を失ってまで技術を追いかける意味はなく、そうして手にした技術が、人を相手にする実践で使えるわけがない。

 固定した目標を常に持っているということは、自らの発想を制限することにもなる。それでは、生きている力を発揮できないのではないだろうか。技術などは全く師の足元にも及ばなくても、自分を信じ、自分の感受性で生きて行こうとする姿勢がある方が良いのである。野口氏が生きていたら、氏のことを最終目標においている人を残念に思うだろう。活き活きと、自分の力を信じて行きていく人を育てようとした人なのだから。

 臨済録には「莫記吾語(私の言葉をメモするな)」の一文がある。師の役割は、自分を頼ろうとする弟子を突き放し、自らの力で生きていることを自覚させることにある。師が先に亡くなった場合、師が弟子に対してその作業が行えず、弟子自らがそれに気が付かなければならないが、それは容易ではない。絶対のものを壊すのに必要なものは勇気でも知識でもなく、からだの深い処からの気づきであるからだ。

 


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意識がからだを変える

2014-10-19 08:25:11 | 「立つ」健康法

 野口整体を習いはじめた頃(17年くらい前)、手を当てるとからだが変わることに驚いた。指を背骨や近くの筋肉に当てると弛むのである。弛めばからだが変わる。手には、目に見えない力があるから変わるのだと思っていた。

 しかしその後の経験から、からだが変わるのは、それを受けた本人の「意識」が大きく関係していることがわかった。手を当てられると気持が良いし、本人の意識がそこに集まることで、固くなっていた筋肉などが動き出し、結果的に弛む。手を当てることの意味は、「見えない何かの力」を物理的に出して患部を変化させるというよりも、その場所を的確に押さえることにある。

 気功が、一人でもからだを整えることができるのは、意識(イメージ)を使うからである。

 私は現在、整体などを受けることなく生活しているが、からだに問題がないのは、自分で自分を整えているからである。意識(イメージ)などを使って、キチント「立つ」練習をすることで、整体以上の調子の良さを感じている。
 


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健康を保持するとは

2014-10-11 07:49:41 | 野口整体

 野口整体の創始者である野口晴哉氏は「自然健康保持」を説いた。健康は促進するものではなく、保持するものである。健康はそれだけで十分であり、なにも付け足す必要などない。健康への絶対の信頼である。

 最近は、サプリメントなどで栄養を補ったり、スポーツジムなどでからだを動かす人も多いが、これらは健康に対する関心というよりは、健康への信頼が無いからとも言える。

 健康とは、自分の力(感受性や運動機能、内臓など全てのハタラキ)が発揮できる状態にあることである。それは先天的に持っているもので、本来努力して獲得するものではない。

 しかし人は社会生活の中で、アタマや感情の偏った使い方によって、次第に健康から離れていく。健康を失った後、人は何かを「しよう」とする。薬を飲んだり、医者にかかったり、何かを「足そう」とする。しかし原因が、感情を過剰に使ったりして、何かを余分にしたことによって、歪んでいるのだから、「無くす(減らす)」方が自然である。たとえば、野口整体の活元運動、気功法、坐禅などもその手段である。

 健康とは偏りのないゼロ(虚と言ってもいい)に戻ることである。ゼロであればこそ、からだは臨機応変にハタラクのである。健康保持とは何もしないことではなく、余分なものを減らして、ゼロに戻す作業を繰り返すことである。


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人を観る

2014-10-05 09:42:30 | 野口整体

 整体をするとき(背中を観るとき)に、できるだけ「まっさら」な状態になることを目指す。前回その人を観たときのことなどがアタマにあると、それが邪魔して客観的に観ることができなくなる。記憶や予想などに拠る先入観をできるだけ排除してから観るようにする。医者がカルテを見ながら診察するのとは正反対である。医者は目に見えることや、数値に現れることを対象にしているからこれで良いのだが、野口整体や気功は目に見えないものを対象にしているから、方法は異なる。

 刻一刻と変化し続けている人のからだに対応するには、こちらもその人に対する観方を刻一刻とリセットして行かなければならない。こういう姿勢でのぞむのは技術よりも、からだ(生命)に対する信頼があるからだ。調子の悪さは必ずからだの上に現れ、それを自他ともに感じとることができて、自分の力で変わって(治って)行くことを信じているからだ。技術を施す(受ける)前に、からだが既にしていること(自然に変化していること)を感じた方が良い。そのときに本当に技術が必要なものなのか、もう一度考えたくなるはずだ。

 


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