子供の頃、よく父に連れられて川へ釣りに行きました。フナやクチボソといった小魚を、ミミズで釣りました。父と行くと大体5~10匹位は釣れるのですが、自分ひとりで行くと、釣れないこともありました。一匹も釣れないとツマラナイ感じが少しはありますが、それでもそんなに残念ではないのです。川に行って腰掛けて、川の流れを見て、ウキの上下するのを眺めているだけでも満足するところがあるのです。ココロのなかの『何か』が満たされるのです。本当に釣りたければ、「釣り堀」にでも行くほうが確実なのです。しかしそれではツマラナイのです。魚を釣り上げることが最終目標ではなかったのです。
気気は「ただ手をあてること」をして「気を下げる」ことを目指します。結果としてそうなることもありますし、ならないこともあります。スッキリして気持ちよくなることもありますし、そうならないこともあるのです。魚も釣れることもあるし、釣れないこともあるのです。それでもまた釣りに出かけてしまうのです。結果の良し悪しにとらわれず、ココロとからだの求めている『何か』を実践していくのが気気なのです。