気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「立つ」ことは「自由」

2020-12-25 08:54:44 | 「立つ」健康法
 立っている姿勢は静止しているから、不自由に見えるかも知れない。しかしキチンと「立つ」と、何者にも拘束されない自由さを得ることができる。「自由」ということは、何処にでも行きたい所へ行けて、欲しい物を何でも手に入れることのできる状況を言うのではない。現状の質(貧富や地位・健康等)の如何にかかわらず、それを肯定し、さらに何かを欲さない状態である。
 もちろんこんなことは普通はできない。私もできない。しかし、キチンと「立つ」ことができると、その時間はそれと似た様子になる。つまり、「立って」いることに満足し、それ以上のものを欲さないのである。側から見ていたら信じられないかも知れない。単に「立って」いるだけなのに、本人が「自由」を感じているなんてことは。
 日に一度、10分程度「立つ」だけで「自由」を感じられる。何よりも「自由」を愛する人ならば、それがわかるはずだ。

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「理想の立ち方を身につける会」予定 2020年 12月

2020-12-18 09:43:34 | 「立つ」健康法

例年この時期になると近所を流れる川の水が切れる。切れた水は所々で小さな水溜りになり、日毎に小さくなっていく。水溜りに近づいて観ると、そこには地上とは別の世界があり、小さな魚が勢いよく泳いでいた。私たちが彼らの生活を知らないように、彼らもまた私たちの生活を知らない。

サギの漁は簡単だ。ただ雨が降らないことをいのり、水溜りが小さくなるのを待つ。有名なピュリツァー賞の写真では、ハゲタカが餓死寸前の少女の後方で待っていた。このサギには同じ血が流れているのだろう。

干からびるか、サギに喰われるか、いずれにしても小魚に明るい未来はないが、限られた水の中をピンピンと泳ぐ姿は、躍動するいのちそのものである。明日を信じるサギは今を生きる小魚には敵わず、明日を怖れる人は明日を知らない小魚に敵わない。

土手を歩く人は着膨れし、憂いのある内側を隠している。




「理想の立ち方を身につける会」を12月20日(日曜日)に開きます。関心のある方は是非ご参加ください。詳細はホームページをご覧ください。

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腰痛になったら慌てずに ただ「立つ」

2020-12-12 08:50:53 | 「立つ」健康法
 久しぶりに腰痛になった。と言っても動けないほどではない。パソコンをやりすぎたのが原因だろうか、腰椎1番が硬くなっている。からだを前後に倒す動きも悪いから腰椎5番も関係がありそうだ。仙骨や腸骨の縁を刺激して腰椎の動きを良くする方法もあるが、何もしなかった。いつも練習している「立つ」ことだけをした。「キチンと立つ」と全身の力が均等になり、結果として硬直している処が緩むのである。
 この「立つ」練習をするときに大事なのは、イメージである。イメージというとなにか美しい景色などを想像するものと思いがちだが、ものの考え方(ものの観方)のことである。ものを比較・分別する相対的なものの見方から、そうしない(ものを一つに観る)方向に転換する。そのためには先ず自分が一つにならなければならない。私たちはからだがつながっていることは知っているが、分けて考えようとする。頭・首・胸・腹・・・という具合に。一つになるには実感が必要だ。全身の各処がつながっていることを疑いもなく信じるためには、知識ではなくからだの感覚が必要である。アタマの理解(知識)ではからだは変わらず、感覚によって得た確信によってからだが変わる。こうしてからだが一つになった後、今度は自他を一つにしていくのである。
 今回の腰痛は「キチンと立つ」練習だけをして、3日ほどで7〜8割ほど回復した。




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名は『気』の上に乗ったもの

2020-12-06 08:32:24 | 「立つ」健康法
 おそらく人は普段、自分の『からだを一つ』だと感じてはいない。もちろん鏡で見れば一つだし、知識では一つだと知っている。しかしアタマで知っているのと、実感するのとでは全く違う。もし仮に『からだが一つ』だと実感出来たとすると、からだ各部の名称は、あくまでも『一つのからだ』のある部分を指す記号に過ぎず、いきなりパーツとしての頭や足という言葉は出ない。からだの上の方を頭と呼び、下の方を足という呼び方をしたくなる。
 上記はからだについての話だが、人について考えるならば、人と人をつないでいる(共通する)ものとして『気』を用いる(仮定する)とわかりやすい。『気』の上に人が乗っかっていると考えるのである。人が各地に点在しているのではなく、『気』という共有の上にあり、もっとも近いところを『私』と呼び、次に近いところを『あなた』と呼び・・・となる。
 

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