モノを一つに見ようとする方法はいくつかあります。一つは足していく方法。たとえば「窓・天井・床は自分とつながっている」と考える。何となくできたら続けて外の建物や木々も自分とつながっていると考える。このように自分の周りに存在するモノを一つづつ足して行き、「一つに見る」方法です。それからもう一つ、「分けられない」と考える方法。人は言葉を使わなければ、自分を◯◯だと証明することができません。自分のことでさえキチンと説明できないのですから、周りのモノモノなど尚更説明することができません。この理屈が腑に落ちれば、「モノを分けることができない」と考えることは、さほど難しいことではありません。
私たちは常識や習慣よって、見たものを疑うことなく直ぐに分けてしまいますが、そこでちょっと立ち止まり、「モノを分けることはできないんだ」と思えば、身心は変わります。非日常の意識になることで、非日常の身心が現れます。「非日常」と言っても、それはとても自然な気持ちのよい状態で、かえって日常が歪んでいることに気がつくのです。
私たちは常識や習慣よって、見たものを疑うことなく直ぐに分けてしまいますが、そこでちょっと立ち止まり、「モノを分けることはできないんだ」と思えば、身心は変わります。非日常の意識になることで、非日常の身心が現れます。「非日常」と言っても、それはとても自然な気持ちのよい状態で、かえって日常が歪んでいることに気がつくのです。