前に荘子の「地籟・人籟・天籟」について少し触れた。今日はその続き。
私たちは、ある音楽を聴くときに、その音楽の背景にあるもの(情報)を先に知っていることが多い。その音楽は誰が演奏しているのか、録音されたのはいつなのか、作曲者は誰なのか、使っている楽器は何なのか・・・。それらの情報はイメージになり、先入観となる。要するに私たちは、ある程度の先入観を持ちながら音楽に向かっている。色眼鏡ならぬ「色補聴器」をつけて音楽を聴いていると言える。
情報(知識)を「ただの情報」にしておくだけなら良いのだが、先入観になってしまうと、それが邪魔をして音楽をありのままに(一期一会の音楽として)味わうことができなくなってしまう。
喫茶店のBGMや、たまたま付けたラジオから流れてくる音楽にココロが動くことがある。先入観が無いから、音楽が「純な形」のまま耳に入るのだ。しかしながら先入観の無い状態を、偶然でなく意識的に作るのは大変なことである。
先入観を起こさせない(減らす)ためのヒントが、荘子の「斉物論」にある。
「形 固 可 使 如 槁 木 , 而 心 固 可 使 如 死 灰 乎(カラダやココロを、枯れ木のようにする・・・白石拙訳) 」
「吾 喪 我(自分を忘れる・・・白石拙訳)」
私にとってこれを目指す具体的な方法は、「気功」や「坐禅」である。