気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

思考せずに聴く2

2013-02-28 14:19:25 | 音楽

 に荘子の「地籟・人籟・天籟」について少し触れた。今日はその続き。

 私たちは、ある音楽を聴くときに、その音楽の背景にあるもの(情報)を先に知っていることが多い。その音楽は誰が演奏しているのか、録音されたのはいつなのか、作曲者は誰なのか、使っている楽器は何なのか・・・。それらの情報はイメージになり、先入観となる。要するに私たちは、ある程度の先入観を持ちながら音楽に向かっている。色眼鏡ならぬ「色補聴器」をつけて音楽を聴いていると言える。

 情報(知識)を「ただの情報」にしておくだけなら良いのだが、先入観になってしまうと、それが邪魔をして音楽をありのままに(一期一会の音楽として)味わうことができなくなってしまう。

 喫茶店のBGMや、たまたま付けたラジオから流れてくる音楽にココロが動くことがある。先入観が無いから、音楽が「純な形」のまま耳に入るのだ。しかしながら先入観の無い状態を、偶然でなく意識的に作るのは大変なことである。

 先入観を起こさせない(減らす)ためのヒントが、荘子の「斉物論」にある。

「形 固 可 使 如 槁 木 , 而 心 固 可 使 如 死 灰 乎(カラダやココロを、枯れ木のようにする・・・白石拙訳)

「吾 喪 我(自分を忘れる・・・白石拙訳)

 私にとってこれを目指す具体的な方法は、「気功」や「坐禅」である。


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円空・・・自我を消して彫る

2013-02-22 17:29:22 | 

 上野に「円空」展を観に行ってきた。大小様々な仏像を、ゆっくりと味わった。円空仏は、金剛力士像であろうと不動明王像であろうと、人を圧倒するような強さは無い。「強さが無い」のが心地よく、それは人間「円空」が自我を消して、彫ったからではないかと想像する。技術を誇示したり売名的な気持が無いのは当然だが、仏像を彫る時に強い思い入れ(例えばこの像が人の仏心を喚起したり、癒しになること、泊まった宿への感謝)なども考えずに、忘れて(或いは脳のモードを変えて)彫っていたのではと思う。だからこそ数百年経った今でも、こんなに清らかな風が吹きそうな空間を造り出し、人々の顔を柔らかくすることができるのだろう。

 仏像の背中に、墨で文字が書かれているものが幾つかあった。それが円空の直筆なのか、他者が書いたものなのか、よく調べて来なかったので分からないが、何れにしても、文字は人間が浮かび上がる。仏像を彫るには自我を消せても、文字を書くときには、相対的な思考を使わざるを得ない。それがもし直筆ならば、仏像以上に人間「円空」を現しているのだと思う。


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう⑥

2013-02-21 15:15:32 | 中国

 青海湖から西寧に戻った私たちは、次なる目的地「成都」へ汽車で向かった。この「成都」で事件?は起こった。二人で公共バスに乗っていると、何故かバスは停留所では無い所で停車した。人が乗り込んできて、バスの運転手と何か話し、次にLちゃんが「ちょっと来なさい」という感じで、呼ばれた。Lちゃんは「オレかよ?」と言っていたが、仕方なく「行ってくらあ」とバスを降りた。私も一緒に降りると、そこには警察の関連施設があり、中に通された。Lちゃんはスリに間違えられたのである。彼が身分証を提示すると(日本人だということが分かり)、「帰って良い」と言われた。怒りの収まらないLちゃんは、彼らの非礼を指摘し、ひと悶着あったのだが、最終的には所長(?エライ人)が出てきて一応収まった。

 さて、我々は郊外の「楽山」に大仏を観に行った。山に直接彫られたそれは、繊細さには欠けるが、あまりにも大きかった。写真は大仏の左足。足の上に大勢載っている。大仏の全貌を観るには、前を流れる川に舟を浮かべるらしい。

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 その後我々は三大霊山の一つである「峨眉山」に行くために、中国人と同じバスに乗った。峨眉山の中腹あたり?に到着し、中国人の旅客と一緒に宿(招待所という)に入ると、我々を泊まらせることはできないという。なぜならそこは、未開放地区(外国人は入ってはいけない場所)だったのである。外国人はツアーで来て、開放されている地区の、外国人用のホテルに泊まるのが普通である。宿の責任者は困っていたが、こちらも他に泊まる所もないので、何とか泊まらせて貰えるよう頼んだ。結局、泊めてはくれたが、外には一歩も出ないようにとのこと(いわば軟禁されたのである)。そう言われても、部屋に居ても面白くはないのだからと、近所を散歩した。そこには清流があり、子供たちが泳いでいた。今、あらためて写真を観てみると、ヤマメやイワナのような魚がいてもおかしくない渓相だ(次回は是非「竿」を持参して来たいものだ)。

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長距離バスの駐車場でポーズを取るLちゃん

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(つづく)


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欠席の理由

2013-02-14 10:57:59 | 野口整体

 高校時代の野球部の友人から連絡が来て、新しいOB会を作るから参加して欲しいと。これが野球部の飲み会なら喜んで参加したのだが、どうも気分が乗らなかったので、欠席することにした。欠席の理由を問われたらキチンと返答したいと思い、気分が乗らない理由を考えた。

 「組織」が苦手なのだ。学校にしても会社にしても、組織の中にいると、どうも窮屈な感じがする。自分が何かを実現するために「組織」を利用するのなら良いかも知れないが、そこにどっぷり使って、思いのままに自己表現をすることはできない。当然のことながら、「組織」は常に組織としての利益を第一に考え、それが個人の利より優先されることは無い。

 私は野口整体の愉気法(二人組になって相手の背中などに手を当てる技術)を通じて、人とキチンと向き合うことを学んだ。言葉やメールは単なる情報の伝達ではなく、まず相手とツナガルことが大事なのである。それは抽象的な言葉を使えば、「気でツナガル」ということだが、実際には、丁寧に相手に触れる(手を当てる)ことだ。

 こういう感覚を持って組織に対峙すると、辛くなることがある。数の論理で動く組織では、少数意見(感覚)は反映されない。

 彼は、私の欠席の理由をそれ以上深く詮索することは無かった。彼はアタマ(理屈)ではなく、もっと大きな感覚(気と言っても良い)で、私を理解してくれた。彼との付き合いは長く、野口整体など知る以前から、一緒に野球をやっていた。形(野口整体・愉気法的な技術)から入らなくても、ツナガッテイル人間もいる。こういう男がトップなら、組織もそう悪くはならないのだろう。


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思考せずに聴く

2013-02-07 11:30:09 | 風景・自然

 先日、山道を歩いていると、近くで何かの「連続した音」が聴こえた。

 音の正体は、枯葉だった。強風によって、ひっきりなしに枯葉が枯れ枝にぶつかっていた。ほんの数秒、ぼんやりとそれを眺めていた。その後、その音を録音しようと思い、準備をしたが、風はピタッと止んだ。しばらくそこに立ちどまり、新しい風の吹くのを待ったが、もう一度吹くことは無かった。

 帰り道、私は、何か自然との関わり方を誤ったような気がしていた。

 荘子の「斉物論」に、「地籟(木の穴[風で音をたてる])・人籟(笛)・天籟(すべてをありのままに聴く)」の話がある。

 今回のケースに例えれば、枯葉は「地籟」で、風の強弱で違った音を出す。枯葉を楽器にして人が叩くなりして音を出せば「人籟」である。どちらも風や人の力を頼っている。「地籟」や「人籟」そのものが、「天籟」に比べてレベルが低いわけではなく、「天籟」とは「地籟」や「人籟」の聴き方である。枯葉とそれを動かす風と、出てくる音を、「ありのまま」に聴く。

 おそらく、正体不明の「その音」を聴いた瞬間だけが「天籟」だったのだろう。思考(私)が動き出し、「その音」が風に依るものだとわかり、「録音しよう」と思った時には既に、「私」と「枯葉」は二つに分かれていた。だからあの後、風が吹いても、それを取り戻すことは出来なかったのだ。


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