気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

甲子園という目標を失ったとき

2020-05-29 15:59:16 | 
 「甲子園」を目指していた学生にとって、大会が中止になるということは目標を失うことである。目標を失って残された高校野球生活をどのように過ごしていくのか、他人事ながら気になる。
 
 人生に於いて、目標があると良く生きられる人がいる一方で、なくても自分らしく生きられる人もいる。人が何のために生きているのか、宗教家や哲学者などがいろいろ発言するが、絶対の答えはなく(誰も知り得ない)、いろいろな生き方があっていい。目標があろうとなかろうと現実の世界は刻一刻と眼の前に現れ、それをこなしていくことが先決なのだ。

 「栄冠は君に輝く」の歌詞に「♪一球に 一打にかけて 青春の讃歌を綴れ♫」とあるが、甲子園という目標があろうとなかろうと、目の前にボールは一つしかない。一球に本気で気持を込めたとき、目標だけでなく甲子園も勝利もヒーローも友達もすべて消える。迷いがなく、とても静かな時空がある(実際に音がしないということではない)。それに気がつくことは、その後の人生を生きていく上で、とても大きな力になる。
 
 老子は「無為を為せ」という。「人為的なことをせず、自然に任せる」ということである。甲子園がなくなり地方大会になれば(或いは地方大会がなくなれば)、否応なしに「無為」に近づく。最大の人為である「甲子園」という目標がないことで、かえって学生の一球にかける純度が高くなるのではないかと思っている。そんな期待をしてしまうのは、私だけだろうか。

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「合う仕事」をからだにきく

2020-05-23 08:29:26 | 「立つ」健康法
 「立つ」健康法を実践しているのは、日々歪んでしまう身心を「調整」するためである。身心の歪みとは何か。それは不自然に使ったことによる偏りである。不自然とは何か。不自然とは裡側から湧いてくる欲求に拠らず、アタマで考えた価値に従うこと。
 
 十代後半から二十代半ばにかけて、私は自分が何を「やりたい」のかわからなかった。「やりたいこと」があるはずだと思い込んでいた。現在まで幾つかの仕事をしてきたが、自分の本当に「やりたいこと」だと思ったことは一度もない。それでよいのではなかろうか。「立つ」健康法が最後の仕事になったとしてもまったく後悔することはないと思えるのだから。

 「やりたい・やりたくない」、「好き嫌い」、「できる・できない」という基準で仕事をさがすのもよいが、「合う・合わない」が大事だ。何の仕事をしているかよりも、その仕事の中で自分らしくいられるかどうかということ。
 その仕事が「合うか合わないか」は、自分の身心にきかなければならない。聴き取る能力も磨かなければならない。「立つ」練習を続けていくと、身心の欲求がわかるようになる。何かをしたいのか、したくないのか。「したくない」というのも立派な欲求である。それに従っていくようにすればいい。慌てることなく、動く欲求が出るまでは動かなくていいのである。
 自分の身心が、自分らしく発揮できる環境をさがす。無ければ作ればいい。

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からだを「静止」する

2020-05-14 16:16:24 | 「立つ」健康法
 健康のために「からだを動かす」人はいても、「からだを止める」人はいない。しかし時にはキチンと「静止」することが大事だ。キチンと静止することができなければ、上手く動くことはできない。「キチンと立つ」ことは、日常の動作のすべての基本である。野球に於いて言えば、ランニングやキャッチボール、素振りなどが基本だと言われるが、その前に「キチンと立つ」ことがある。
 「キチンと」と言ったのは、たとえ椅子に腰かけて静止しているように見えても、テレビを見たりケータイをいじったりしているのであれば、「キチンと」とは言わない。意思をもって積極的に静止するときに、はじめて身心は変わり、普段とは違う表情が現れる。健康のために「静止」するという選択肢もあるのである。そういうわけで、私は日々「立つ」練習をしている。
 

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「立つ」ことは 幸せ

2020-05-09 16:24:19 | 「立つ」健康法
 ホームページの更新がずっとできないでいたが、いろいろといじっているうちにできるようになった。関心のある方はご覧ください。

 ホームページのトップページに「立つだけで幸せになる」と書いた。普段「幸せ」という言葉は滅多に使わないし、おそらくブログ上でも使ったことがない。それが、どうして今回あえて使ったのか。「幸せになる」の他に似た意味で考えたのは、「充実感が得られる」「快感が得られる」「自分らしくなる」「自然になる」「リセットされる」「ニュートラルになる」…どれもピッタリしなかった。実を言えば「幸せになる」も、ピッタリではない。
 
 「幸せ」という言葉は誤解されやすい。一般的に「幸せ」が使われるのは、結婚や人生においてである。普通の感覚では「立つことで幸せ」など、なんのことやら想像もできないだろう。しかしながら私が「立つ」ときに得られる身心の状態を「幸せと」表現したのは、普段日常で使われる意味とは異なる。結婚や人生に対して使われるそのような感覚とは違う。では何故「幸せ」を使うのかというと、「立つ」ことで自分の「(判断の)基準」が変わったとき、その言葉はピッタリとは言えないまでも、そうズレてもいないからである。「立つ」ことで身心の状態が変わり、物を観る眼(価値)が変わる。本人が立たないことには「幸せ」がわからない。

 日常の幸せには、条件が付いている。素敵なパートナーとの結婚、仲の良い家族、物に不自由しない生活、健康に生きられること…こういうものが揃うと「幸せ」だと言われる。「立つ」ことは現状を問わずに、無条件で「幸せ」になる。物が無かろうと、孤独だろうと、病が有ろうと…条件という外側をいじらずに、自分という内側をいじる。「いじる」といっても無理にはしない。ごく自然にゆっくりと丁寧に、からだと意識を使って「立つ」と、自ずから「そう」なってしまう。「立っている」ことに満足する、他に何も求めない…だから「幸せ」という言葉を使ったのである。


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