小学生の時の恩師が信楽の陶芸家をしています。snsで「菩薩」と名づけられた写真を見ると、その花器の曲線はまさに菩薩像を想起させる物でした。顔がないのに菩薩に見えてくるとコメントすると、先生は「一輪の花を挿してごらん。顔つきになるだろう。それが焼き物ってやつの宿命です(笑)」とお返事がありました。つい忘れてしまうのですが、焼き物は人に使われることを想定しているのです。もちろん観賞用としても芸術的価値は十分に感じられますが、焼き物には「用」があるので、先生は宿命と言われたのです。「用」を無視した陶芸は成り立たないということです。焼き物は単独でも完成していながら、「用」の面から見れば未完なのです。
人間も、焼き物と同様の宿命を持っているように思えます。人は人間として、一人で完成していますが、一人では生きていくことができません。つまり、一人の人間には、常に周りに他の人がいること、その人たちと関わることが想定されているのです。ここで想定されるのは、必ずしも家族や友人といった実際のつながりのある人ではなく、限定されない「人」です。
花器を見るときに、すでに想定されている花をみるようにすると、見え方が変わってきます。人もまた、自分や他人を見る(意識する)ときに、周りには限定されない人が想定されていると思うと、変わってくるのです。