気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

花器に想定されている花

2023-02-24 09:23:10 | 「立つ」健康法

 小学生の時の恩師が信楽の陶芸家をしています。snsで「菩薩」と名づけられた写真を見ると、その花器の曲線はまさに菩薩像を想起させる物でした。顔がないのに菩薩に見えてくるとコメントすると、先生は「一輪の花を挿してごらん。顔つきになるだろう。それが焼き物ってやつの宿命です(笑)」とお返事がありました。つい忘れてしまうのですが、焼き物は人に使われることを想定しているのです。もちろん観賞用としても芸術的価値は十分に感じられますが、焼き物には「用」があるので、先生は宿命と言われたのです。「用」を無視した陶芸は成り立たないということです。焼き物は単独でも完成していながら、「用」の面から見れば未完なのです。

 人間も、焼き物と同様の宿命を持っているように思えます。人は人間として、一人で完成していますが、一人では生きていくことができません。つまり、一人の人間には、常に周りに他の人がいること、その人たちと関わることが想定されているのです。ここで想定されるのは、必ずしも家族や友人といった実際のつながりのある人ではなく、限定されない「人」です。

 花器を見るときに、すでに想定されている花をみるようにすると、見え方が変わってきます。人もまた、自分や他人を見る(意識する)ときに、周りには限定されない人が想定されていると思うと、変わってくるのです。

 

 

 


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「白地図」のように

2023-02-10 20:08:18 | 「立つ」健康法

 「白地図」というのが、たしか中学一年生の地理の時間にありました。国境だけが線で引かれていて、そこに山脈や川を描いたり、地名を入れたりしたのではないでしょうか。

 さてこの「白地図」、色を付けたり文字を記入したりせずに、「そのまま」で見ると、とても興味深いのです。線でないところ=「白」いところは、線の内側だろうと、外側だろうと、すべて同じ「白」なのです。当然と言えば当然のことなのですが、私はこのことに気がついたときに、とても感動しました。線だけ見たり、線の中だけを見ていると、白い部分が見えないのです。私は「白地図」においては「白」が主役なのだと思っています。

 仮に白地図のような紙の上に、私たちのからだや物ものが線で書かれているとしましょう。引かれている「線」は、人や万物の輪郭です。先のように「白」を主に見れば、万物のすべてが「白」であり、そこにただ線が引かれているだけです。「ただ」と言ったのは、線が引かれたとはいえ、他から独立して存在することがまだできないからです。「まだ」と言うのは、名前と概念がまだないからです。それが与えられれば、一般常識的には個別に独立できます。

 人がこの白地図のように、万物を見ることができれば、ずいぶん世界が違って見えるはずです。私たちは、世界には色があって、名前があるのが当たり前だと思っています。しかしそれは初めからではなく、後から人がつけたのです。人がつける前は、もちろん「白地図」のような世界だったのです。そういう色がない世界はつまらなそうに見えるかも知れませんが、しかしそこには絶対の安心感があったはずです。なぜならすべてがつながっている世界には敵がいないからです。

 私はその世界の方がいいと言っているのではありません。ただときには人が、色の付いたものだけでなく、「白地図」のようにすべてがつながった世界を見ようとするのもいいのではないかと思っています。ジグソーパズルの表には色や模様が付いていますが、裏から見ればすべてのピースは、同じ色(素材の色)です。この裏から見るような見方も持っていたいと思うのです。

 禅では物のことを「色」と言います。「色即是空」とは、物には本質がないこと=空 だということを表しています。この「空」は、白地図の「白」いところです。「空」には、何もないのではなく、すべてに共通するもの(ここでは「白」)があるのです。


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「気」の付き合い

2023-02-03 08:39:56 | 「立つ」健康法

 人は一日のうちの幾つかの場面で、誰かと触れ合い、付き合います。家族や仕事関係の人、昔からの友人、趣味の同じ人、思想・信仰を同じくする人、公共機関の人・・・。程度の差があるものの、そこに目的や感情があるから触れ合い、付き合うわけです。

 私は目的や感情以外に、「気の付き合い」があると考えています。それは目的や感情が絡まない付き合いです。そんなことができるのかと思われるかも知れませんが、私は教室で生徒たちとそういう「気の付き合い」を実践しています。たとえば次のようなかんじで行います。まず円形になるように立ちます。気功によって身心を落ち着かせた後、自分を「気」だと思い、他の人も「気」だと思います。「気」には、多くの意味がありますが、ここでは万物の根源としての意味です。「気」の次元(レベル)では、自分と相手(他人)は、「気」という同じ質なので、互いに「共有」できます。気の出入りが自由になり、自分と相手はつながってしまうのです。

 普段の私たちは、名前と肩書きで、互いに分かれています。逆に言えば、名前と肩書きがあるから、つながることができません。気の付き合いは、利害・好悪などを超えています。目的(利害・必要など)のある付き合いを仮に「知の付き合い」として、感情(好悪など)の伴う付き合いを「ココロの付き合い」とすれば、それ以外の付き合いは「気の付き合い」となります。

 「気の付き合い」の最中は、普段感じることのない気分(感覚)になります。普段と意識が変わるのだから、身心が変わるのは当然です。なんとも言えない安心感というか、幸福感のようなものがあります。それは何かと比較するものではなく、欠乏感がなく、そのままで十分満足できるかんじです。

 「気の付き合い」はその練習中だけにあるのではなくて、日常の中にもあります。上述した「知の付き合い」や「ココロの付き合い」の中にもあります。「知の付き合い」や「ココロの付き合い」と言っても、はっきりとその内容として分かれているのではなく、「気の付き合い」も含めて三者が混ざり合っているのです。ただし「気の付き合い」は他の二つと比べて、割合が非常に少ないです。私はこの「気の付き合い」が日常に入っていないことが、社会がギスギスしたり、うまく生きることのできない原因になっているのではないかと思っています。 

 「気の付き合い」というのは、相手に何も期待しない「無目的」な付き合いです。参加する生徒は、教室に来る時点ですでに「目的」はあるのですが、それでもその限られた時間の中で「無目的」で「すべてがつながっている」ということを目指します。完璧にできなくても、この練習に意味があることは、身心が変わることで実感できます。


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