気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

2024年3月のワークショップのご案内

2024-02-04 08:18:31 | 「立つ」健康法
昨年に引き続き、ストレス対処法研究所さんと共催で、ワークショップを開くことになりました。からだを整えることに関心のある方でしたら、どなたでもご参加できます。以下チラシの抜粋です。


気功と瞑想が織りなす健康ワーク

カラダとココロを整えるワークショップです
普段知らず知らずに入ってしまう緊張をゆるめ、本来人が持っている能力を引き出します  
カラダの声がきこえる(欲求がわかる)ようになり、カラダに対する信頼が持てるようになります
日々のパフォーマンス(言・動)がだんだんに、そして確実に向上します
日常生活に役立つヒントをお届けします!

■日 程 2024年 3月10日(日) 3月24日(日) 3月31日(日)
■時 間  10時00分~11時30分
■募集人数  10名
■会 場  阿佐ヶ谷地域区民センター 和室
      ⇒JR中央・総武線 阿佐ヶ谷駅北口から徒歩5分
■参加費・・・  4000円 (3回) 1500円 (1回)
■申し込み・問い合わせは「気気の会」ホームページの(メール)よりお願いします


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感受性を拓く

2023-12-28 08:46:21 | 「立つ」健康法
 身心が整ったときに「ああ気持ちが良い」と感じられるのは、感受性があるからです。しかし調子が悪くなっても分からない、「感度の鈍い人」も多くいます。感受性は自分の身心を知るための大事な基準です。
 私は25年くらい前に野口整体を4年間ほど習いました。「啓哲塾」と呼ばれる教室では互いの身体に手を当て「愉気」をして、整体操法の練習をしました。そこでの訓練が身心の感受性を拓くことになったと思っています。
 私の教室の生徒でも20年くらいやっている人は、数年の人と比べて感受性がグンと高いです。繰り返し練習することで、感受性は磨くことができます。
 
 太極拳は動作ではありますが、「形」ばかり練習しても上手くはなりません。正常な身体感覚がないと進歩しないのです。動かすところ(特に腕)だけに力を入れて、バランスを失ってしまう人は多いです。バランスの悪さは見た目にも現れますが、本来感覚で感じ取るべきものです。しかし感覚(感受性)が鈍っていれば気がつくことができません。ですから太極拳を学ぶときには、動作だけでなく、身体感覚をよくしましょうと言っています。

 道や公の場所で歩きづらいと思うことがあります。それはスマホや音楽などに気をとられている人が多く、そのような人は周りに意識がいかないからでしょう。感受性が正常に発揮できない状態だといえます。所謂「空気」は読まなくても良いですが、相手(周囲の人)の「気」は読まないと、知らず知らずのうちに人に迷惑をかけてしまうのではないかと思います。

 今年も「キチンと立つ」練習中に、多くの「気づき」がありました。裡側から自然に湧いてくるような感じです。それは自分をニュートラルな状態に近づけたときに出てきます。
 「自分のことがわからない」、「自分のやりたいことがわからない」という人は、無理してそれを考えるのではなく、まずは身心をニュートラルに戻すことから始められたらどうでしょうか。少しづつ自分の欲求がわかるようになると思います。

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第三の意識

2023-12-02 09:19:27 | 「立つ」健康法
 私たちは普通に生活しているときに、理性的なときと、感情(ココロ)的なときがあります。実際にははっきりと分かれているのではなく、どちらもあり、どちらが優位かということになります。理性的というのは、他者を意識した行動で、感情的というのは、自分を中心に考えることです(悪い意味ではありません)。

 私は理性的・感情的以外に、「もう一つの意識の状態」を付け足したいと思っています。その状態を表す言葉がないので、とりあえず「その状態」と呼びます。「その状態」は、自分と他者のどちらか一方に意識を置かずに、どちらも含みながら一つに見る(一つだと考える)ことです。
 
 理性的・感情的という二つの基準だけだと、結構生きづらいものです。特にココロを至上のものとしてしまうと、ココロが折れれば何もできなくなります。第三の意識「その状態」を持つことで、ずいぶんと楽に生きられるようになります。
 
 私は理性的・感情的に見ている世界は「半分」で、第三(理性・感情を相対的な見方とまとめてしまえば、第三ではなく、第二ということもできます)の意識で見る世界が「半分」だと考えています。ただし「半分」というのは形式上の割合のことで、実際の生活において、第三の意識が常に「半分」あるわけではありません。1日に数回、「第三の意識」を意識して、その余韻があるとしても、圧倒的に「理性的・感情的な世界」が占めています。それでも意識しようとするのは、「自分」を取り戻したいと思うからです。

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「透明の世界」を創る

2023-11-25 07:21:22 | 「立つ」健康法
 
 「透明」のイメージを通して創り出す「透明の世界」は、日常とは違うから、もう一つの世界と言うこともできます。と言っても霊界や四次元のように、現今の世界と明らかに違う世界ではなく、まったく同じ景色を持った世界です。同じものを、違う基準で見るから、違う世界になるだけです。
 恋愛をしている人の見ている世界は、そうでない人と比べて、少し明るく、幸福な世界だと思います。ただし恋愛は感情を必要としますが、透明の世界に感情は必要ありません。むしろ感情をなくして淡々とイメージをするからこそ、周りとつながることができるのです。感情は移ろいやすく、信じるには不安定です。もしすべてのモノモノに対して、感情を絡めて付き合おうとすれば、とても疲れてしまうのではないでしょうか。

 「透明の世界」は、二つあります(二つの方法で創り出すことができます)。形をもった具象の世界と形を持たない抽象の世界。具象の方が想像しやすく、抽象の方がより深い透明の世界を想像することができます。具象のイメージは、たとえば札幌雪まつりの雪像のように、すべてのモノモノが透明でできているように想像します。もちろん自分も透明人間として想像します。輪郭が残ってしまうのがこの方法のデメリットですが、それでも身心は変わります。抽象の方は、「透明」という言葉の持っている概念が広がり、結果的にすべてがつながって来ます。

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執着から自然に離れる

2023-10-25 17:06:55 | 「立つ」健康法
 私たちは普段、意識するしないにかかわらず、モノを分けて見ています。電車は電車であり、バスはバスであり、電車とバスが混ざり合って一つになることはありません。私とあなたは別な人間であり、たとえどんなに愛し合っていても一つにはなりません。すべてのモノは分かれているという前提で生きているからです。。
 そういうあまりにも当然なモノの見方に対して、モノをつながった一つのものとして見ようとする見方(別の基準)があります。他者と自分がつながっていて、床と天井、鮎と日本海がつながっている。普段の見方ではあり得ないことを、イメージを使って実現していくのです。実現といっても、それは物理的につながることを意味しません。ただ想像するのです。しかしそれはただの空想ではなく、カラダも使いながら想像していきます。完全にイメージすることができなくても、そこに向かうだけで身心は変わります。もちろん自分にとって良い方向へ。
 
 モノを一つに見ようとするときに、「透明」のイメージを使います。透明は色がないから、すべてのものモノはつながってしまいます。ではすべてを「透明」化して終わりかというと、そうではありません。それを現実に応用します。「透明」によって変わった身心をもって日常のモノをあらためて眺めてみると、普段とは違って見えることに気がつきます。目に映るモノものに変わりはありませんが、何かが特別に目立たなくなります。普段の私たちは興味のあるものだけを見ているのに対して、(完全ではありませんが)モノものが平等に見えて来るのです。そして意識も変わります。いつも気になっているようなことが、そうでもなくなります。
 執着してしまうことをそうしないようにすることは、なかなか大変なことです。考えないようにすればすれほど考えてしまうことはよくあります。しかし上記のようにイメージを使うと、思いのほか簡単に執着から離れることができるのです。



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