気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

名曲を勝手に解釈する⑨

2014-01-30 19:28:53 | 音楽

 巨人軍で通訳をしていたとき、2軍に同期生がいた。彼の部屋に遊びに行くと、村下孝蔵のCDが何枚もあり、ファンだと言っていた。彼は1軍で活躍することなくプロ野球界を去ったが、村下孝蔵の歌を愛するような、優しい性格が災いしたのではないかと思っている。

 高校生の時に、ラジオから録音した「春雨」を愛聴した。

 「心を編んだセーター 渡すこともできず 

  一人部屋で解く糸に 思い出を辿りながら」

 セーターには心が編み込んである。その糸を一本一本解くという作業は、編み込んだ一つ一つの心を解いていくことである。それは時間をさかのぼり、「愛する前の自分」に戻ることに他ならない。同じセーター絡みの歌では、「着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます」という都はるみの「北の宿」がある。辛い気持を治めるために「編む(作る・前進する)」のだが、村下の方では「解く(壊す・後退する)」のである。表現は全く対照的だが、心の解放という方向性は一致している。

 ところで、1番の歌詞の中には、「繰り返す」動作や「繰り返す」に関係する言葉が多々ある。「編んだ」「解く」「レコード」「繰り返す声」「谺(こだま)」「廻り続ける」「電話の度に」・・・これらに共通しているのは、人為的で、再現することができるということである。2番では、一回性の儚さを嘆き、主題である「春雨」が登場する。

 「あの人を変えた都会 すべて憎みたいわ

  灯り消して壁にもたれ 木枯らしは愛を枯らす」

 「せめてもう少しだけ 知らずにいたかった

  春の雨に頬を濡らし 涙を隠したいから」

 「雨」は水の落下を反復する「繰り返し」ではない。先に挙げた「繰り返し」とは対極にある。「雨」はたった一回の出来事である。雨の一粒一粒は個性をもって、空から地上に降って来る。他と似ていない一粒一粒だからこそ、私にぶつかり頬を流れ落ちるときに、淡い期待や夢をも洗い流してくれるのだ。たった一度の恋を、捨てる場所は「春雨」の中にしかなかったのだ・・・

 「もう誰も私 見ないでほしい

 二度と会わないわ いつかこの街に帰って来ても」

 彼女が春雨に依って洗い落とす様は、肉を削ぎ落とす如くである。彼との思い出だけではなく、「女」をすべて「落とそう」としているのである。女としての魅力を捨てる。それは将来に再び恋をしないことの決意というよりは、二度とそのような恋ができないことを知っているからだ。彼が居ての「私」だったのだから、彼が居なくなれば「私」もいなくなるのだ。

 1番のサビ、

 「電話の度に サヨナラ言ったのに 

 どうして最後は黙っていたの 悲しすぎるわ」

 何故、彼が黙っていたのか。その答えは恐らく、その後彼女が、二度と恋をしないであろうことを分かっていたからではないだろうか。今生における最後の恋、その息の根を止める一言を、言うことができなかったのだ・・・言えれば、辛くとも悲しい想いはさせなかったはずだ・・・


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名曲を勝手に解釈する⑧

2014-01-24 10:33:55 | 音楽

 私たちが「恋人よ」を聴くときには、悲しみの中にも「美」を観るのだが、本人(歌の中の主人公)にとってこの歌は、悲しみだけなのかも知れない。五輪真弓が真直ぐに立ち、その口元を引き締めた表情を観るとそう思うのだ。 前奏は、彼女の置かれた境遇と心中を現している。刻まれるリズムは、「時」そのものであり、呆然とする彼女に別れの現実を突きつけ、対処を迫る。一方ストリングスは心の様相であり、「時」の間を縫うように流れ、消えた恋人をさがし求める。

 恋人と居るときに「枯葉は散らない」。恋人と居るときには、時間が止まるからだ。「枯れ葉散る」という冒頭の一行は、既に愛が終わったことを示している。恋人と別れることは、「時」の中から「時」の外に出ることだ。そこではじめて「時」が流れるものであり、「枯葉が散る」ことを知ったのである。

 「雨に壊れたベンチには 愛をささやく 歌もない」・・・「愛をささやく 人もいない」のではなく、「歌もない」なのだ。何故「人」ではなく、「歌」なのか。この恋人たちは、単なる言葉のやり取りをしていたのではなくて、歌を交わして(唄い合って)いたのだ。歌は物語である。物語が終われば、歌はない。たとえ人が残ったとしても、歌がなければ仕様がない。歌は二人の存在そのものだったのだ。

 恋人と別れた彼女は、初めて無常を知る。枯葉も夕暮れも、壊れたベンチも皆、そこに立ち止まることなく、変化し続けていくことを知る。 そしてマラソンランナーまでもが、全てを忘れ無常に生きろと「止まる私を誘っている」。

 2番のサビで「恋人よ さようなら」と言ったのは決別の意ではなく、無常によって彼が再び戻ってくることを信じたのだ。彼女の心にわずかな静寂があったとすれば、この一瞬である。しかしめぐってくるのは季節だけ・・・「あの日の二人」は再び帰っては来ない・・・流れ星を前にしても、そこには決して叶わない「無情の夢」があるだけだ。

 最後のサビ「恋人よ そばにいて」の歌詞は1番のサビと同じだが、意味合いは大きく異なる。1番のそれは、突然の別れに動揺し、自分を制御できずに現れた感情。最後のそれは、2番のサビで「恋人よ さようなら」と一度「無常」を悟った後に、再び現れた感情である。それがいかに激しい慟哭であろうと、一度平坦になった処から湧き上がるものを抑えることはできない。


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山を歩く人、走る人

2014-01-16 16:31:53 | 風景・自然

 「トレイルラン」という山を走る競技がブームになりつつあるという。先月開催された大会(高尾→檜原村)では、近所の裏山がそのコースになり、行列を作って山道を走るランナーたちを、窓から観た。

 駅への往復でよく利用する山道は、道幅が狭くて、急勾配なところが多い。すれ違う時には、どちらかの人が、スペースを見付けて横にズレて、通過を待たなければならない。こういうことは山では普通にあることで、挨拶をするだけでなく、コースの様子を訊いたり、感想などを話すこともある(昨年すれ違った人とは渓流釣りの話を1時間以上もした!)。

 トレイルランの人は、前をゆっくりと歩いている登山者や散歩をしている人を見かけたら、どうするのだろうか。前を歩く人の直前まで走って行って、声を掛け、先に通してもらうのだろうか?

 山には様々な目的を持った人々が訪れる。喧騒な日常を離れ、自然の中に身を置きたい人。自分を取り戻そうとしている人。健康法として登る人。山を制覇するような達成感を味わいたい人。じっくりと鳥や植物の観察をしている人や、絵を書いたり写真を撮ったりする人もいる。山を訪れる人に共通しているのは、自分のペースを大事にしているということだ。自然に呼吸のリズムに合わせ、考えるに相応しい速度で歩いている。街中で道を歩いている時には、自転車や車を少なからず意識しなければならず、多少の緊張があるだろう。山ではそのような心配はいらないから、充分にリラックスできる。

 「山を走りたい」という欲求は、不思議なことではない。私も以前に、ほんの短い距離だが、走っていたことがある(朝の5時頃に舗装された登山道・高尾山1号路)。ただそれが競技となると、変わってくる。競技者の眼に映る山は、もはや山ではなくなり、ただ高低差のあるトラック(コース)になる。競技と自然は本質的には別物である。競技は時間を競うものだが、自然を味わうことは、時間を忘れることである。いわゆる「三昧」とは、対象と自分が一体になることで味わうことのできるもので、時間の介入は許されない。

 山を静かに味わっている人たちの中に「走って行く」ということはどういうことなのだろうか。山に関わるのであれば、そういう想像をすることは大事なことだ。もし私が走るのならば(今はその可能性がないが)、前に人を見つけたら、その人に走っていることを気づかせないようにする。数十メーター手前で走るのを止めて、ゆっくりと歩いて近づく。声を掛けて、先に行かせていただく。しばらく歩いて、その人から見えなくなった頃に再び走り出す。

 沖縄本島北部に「喜如嘉」という静かな村があり、そこに在った貼紙。

2013_186

 

 


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沖縄で感じたこと、考えたこと

2014-01-09 17:09:58 | 

 沖縄は肌に合う。18~20歳まで留学した「厦門(中国・福建省)」と気候が似ているからかも知れない。今回の旅では友人(先輩・師でもある)とその娘に会い、久高島でゆっくりと過ごした。浜辺で彼の三線を聴いた。波の音と三線の音がぶつからないのいは、互いに自己を主張していないからだろう。彼の声は、先人たちが残してきた伝統を継承することだけを目指し、ただ垂直に天に向かって伸びていく。その昔、祖神アマミキヨが降臨した場所として伝えられる久高島で、奉納するに相応しいのは彼の人柄であった。

 知念から名護まで、路線バスを乗り継いで行った。途中下車して登った「伊波城跡」は、ただ風が吹き抜ける広場であったが、左右(東西)に海を見渡すことのできる気持ちの良いところだった。

 ところでバスが名護市内を走っている時に、停留所でないところで突然止まった。運転手は前の扉を開けて、稲嶺市長の選挙支援をしている人たちに挨拶をしたのである。その行為を不快だとは思わなかったのは、恐らくそれが、運転手の我欲に依るものではなく、もっと大きな「想い」に依るものだと感じたからだ。

 太極拳には「一動全動」という言葉があり、身体の中で一箇所が動けば、必ず他の全ての箇所が動くという意味である。太極拳は手や足をバラバラに動かしているのではなく、元々一つの繋がりのある身体を、繋がりをもって動かすのである。「沖縄の海」を身体に例えて考えれば、辺野古に基地を作るということは、その箇所が自由に動かせなくなることになり、それは単に辺野古(一箇所)だけの問題ではなく、周りの海(他の全ての箇所)にも影響があるのである(全体性が失われる)。

 「動」というのは、必ずしも前後左右上下に、眼に見える形で動くということではなく、「意識する」ことが「動」である。太極拳を深くやっている人ならば、全身に意識を配ること、すべての方向に意識を向けることの大事さはわかるだろう。「ヤマトンチュウ」が「沖繩」を身体の一部であると意識できたとき、基地問題がようやく動き出すのかも知れない。しかし身体感覚が鈍っていれば、それもわからないのだが・・・。

 友人が船着場で別れ際に言った「沖縄の海が海でなくなったら、もう沖縄ではないからね」という言葉を身体で考えている。

 


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