「信心銘」に「至道無難 唯嫌揀択」という言葉があり、「道に至るのはそう難しいことではなく、ただ選り好みしなければいい」という意味である。しかしこれを実行することは至難だ。私たちの日常はありとあらゆる選択の連続で、その都度適切な判断を迫られる。判断の基準は利害・好悪・善悪・勝敗などであり、無判断で選択することなどあり得ない。「選り好み」をしないというのは、どんな結果になっても構わないという、すべてを受け入れる思想であり、我々凡人が容易に到達できるものではない。
私は健康のために「立つ」練習をしている。「立つ」だけだから太極拳のように難しくなく、勝負ではないから具体的な目標もなく、判断を迫られることはない。「立つ」ときに使うイメージは、できるだけ物を比較・分別せずに一つに観るというものである。これも簡単ではないが、からだを同時に使うことで、少しやりやすくなる。からだの感覚は意識よりも先に周りとの一体感を得られるから、その後に意識を変えていけばよい。実際に「一つに観えている」のかどうかはわからないが、身心が変わったことは自覚できるから、それでいい。どうやら選択・判断をしないことで身心は変わるようだ。
私は健康のために「立つ」練習をしている。「立つ」だけだから太極拳のように難しくなく、勝負ではないから具体的な目標もなく、判断を迫られることはない。「立つ」ときに使うイメージは、できるだけ物を比較・分別せずに一つに観るというものである。これも簡単ではないが、からだを同時に使うことで、少しやりやすくなる。からだの感覚は意識よりも先に周りとの一体感を得られるから、その後に意識を変えていけばよい。実際に「一つに観えている」のかどうかはわからないが、身心が変わったことは自覚できるから、それでいい。どうやら選択・判断をしないことで身心は変わるようだ。