気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

偶然或いは何かの思惑

2014-04-24 15:46:03 | 

 先週の水曜日(16日)に、ふと「オケラ」が頭に浮かんだ。小学生の頃に見たことがあるが、姿・形が曖昧だったから、ネットで画像を見て確認した。

 翌日、釣り場を変えるために、畑の横を歩いていると、道に虫がちょこちょこと動いていた。初めは何の虫か分からず、しゃがんでよく観ると「オケラ」だった。コウロギに少し似ているが、彼のように弱々しくはない。掌に乗せてみると、忙しいほどよく動き回る。ジッとしていられない性格のようで、指で掴むとすごい力で逃げ出そうとする。前足はノコギリのようにギザギザしていて、土を掘るのに都合が良さそうだ。

201404174 (動き回るのでピンボケ)

 恐らく40年くらい前に1度見ただけの「オケラ」。何故か40年ぶりに想い出し、その翌日に目撃する。偶然にしては出来すぎている。もしかしたら「肥田春充(先週ブログに書いた)」がちょっとイタズラをしたのでは・・・と思うことにした。


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釣りのあとに寺を訪ねる

2014-04-18 19:50:07 | 渓流・鮎釣り

 昨日は「桂川(都留漁協)・支流」の最上流に初釣行。地図を眺め、ここには渓魚がいるのではと予想して出発。大きな砂防堰堤が幾つもそびえ立ち、その都度巻くことを余儀なくされるが、それもまた渓魚に会うためである。パーマーク(斑紋)のくっきりとした山女魚が2匹釣れて、予想が間違っていなかったことが嬉しかった。その後は岩魚が続いて出たが、ある処からアタリがプッツリと無くなった。前方に釣り人が見えた。恐らくその人は沢の途中から入渓したのであろう。残念だが仕方がない。諦めて場所を下流に変えてみたが、すでに私の集中が切れていたのか魚は出なかった。

 ところで先日、私が遊ぶ渓の近くに「一乗寺」という寺があることを知った。「一乗寺」は「肥田式強健術」を編み出した肥田春充が若い頃に、病弱な肉体を改造することを誓ったと言われている。肥田春充の本を最近読み返したりしていた矢先に、偶然にも肥田因縁の場所を訪ねる機会がすぐ近くにあることを知って驚いたのだ。

 20140418

 肥田の健康法は、自分の身体をもって作り上げたものだ。一見シンプルだが、キチンとやるのは大変である。彼の提唱する「聖中心」を体感することは、それ以上に難しい。その先には「無念無想」の境地があるというが、果たして肥田以外にそれを体現した人がどれだけいるのだろうか。

 「一乗寺」に向かう道の真ん中に石碑が立っている。

201404175

 「三つ峠」を後ろに控え、気の澄んだ、気持ちの良い寺であった。

201404173

 

 「一乗寺」をさがして、道を尋ねようかと思ったところに現れた女性は、私が「それ」を訊くことを予想していたかのような対応だった。しばらく歩いて別の寺と間違いそうになった時に、再びその女性が今度は車で現れて、「ここではありません。もう少し前です。」と教えてくれた。その車は50m程前で停車すると、窓から右腕を出して、「ここを曲がってくださいね」と腕だけで合図をしてくれた。全てのタイミングがよく、風のようにサラッと去って行った。

 


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キャンディーズを時々歌う

2014-04-11 16:48:29 | 音楽

 小学生の時から「キャンディーズ」を聴いていた。アイドルとしてと言うよりは、彼女たちの歌が好きだったからだ。

 20140411

 その頃買ったテープは、よく聴いたので、今では音がすっかりコモってしまった。それでもCDを買う気にはなれないのは、このテープの音質と曲順が、思い出と共にカラダに染み込んでいるからだろう。

 それから「キャンディーズ 卒業アルバム」という本。私と共に引越し先を転々と移り、今も手元にある。この本には、ギターコード付きの楽譜があり、弾き語りに重宝している。

20140411_1

 さて、私のココロが一番動くところは、歌の途中で、ランちゃんのソロが入る処である。たとえば、

①「哀愁のシンフォニー」・・・「?私の胸の奥のみずうみにあなたは~」

②「暑中お見舞い申し上げます」・・・「?なぜかパラソルにつかまり~」

③「その気にさせないで」・・・「?何故かあなたには 隙をつかれそう~」

④「ハートのエースが出てこない」・・・「?あいつの気持が判るまで~」

 

 ランちゃんがソロを歌い出す直前に、ほんの一瞬、「空白の間」がある。その「間」はスーちゃんとミキちゃんが作り出している。これ以上ない歌いやすい環境を作り出す。その「間」があるからこそ、ランちゃんは、自由に羽ばたくことができるのである。二人の献身的な姿勢を受けとめ、ランちゃんは、たとえ画面には一人で映っても、一人で歌っている顔をしていない。

 


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「治りたい」と「治したい」

2014-04-04 17:02:58 | 健康

 自分のカラダを「整えたい」と思うのは「本能」である。カラダに異常があったり、病気になった時に「治りたい」と思うのも「本能」である。しかしこの「整えたい」と「治りたい」は同じではない。

 「整えたい」は自分が主だが、「治りたい」は受身である。「治りたい」が悪いわけではなく、「治りたい」の中心に「整えたい」があるべきだ。「整えたい」は自覚するしないにかかわらず、常にあるべき欲求である。「整えたい」欲求があれば、身心の小さな異常に気が付き、自分でそれを整えることもできる。たとえ自分の力だけでは治せない場合でも、「整えたい」欲求を自覚しているなら、「治りたい」ではなく、「治したい」となる。自分に医療的・整体的な技術が無くても、精神的には主体的に関わることができるのだ。

 「整えたい」欲求が分からない人は、寝ている間にカラダが何をしてくれているのかを考えてみればいい。ツライ時に猫背になるのも、硬くなった鳩尾(みぞおち)を弛める意味があるのである。

 仕事や趣味を自主的に生きている人でも、カラダのことになると医者に全てを預けてしまうのはどういうわけだろう。カラダに対してキチント向き合い、欲求を感じながら生きるという姿勢が、主体的に関わることになる。


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