気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

存在を薄めていく「快」

2021-03-28 05:45:36 | 「立つ」健康法
「幸せ」や「生まれてきてよかった」という思いは、そのときに満足して得られる感覚である。逆に言えば、その時々を満足いくように生きていくことが、幸せな生き方になる。満足とは自己の欲求を満たすことだが、私は二種類あると思っている。一つは日常の満足。私たちが普段の生活において得られる満足。気の合う人と会うこと、やり甲斐のある仕事をすること、人に評価されること、行きたいところに行くこと、芸術を味わうこと、美味しいものを食べること、温泉に入ること・・・。もう一つは非日常の満足。それは普段とは違う身心の状態になることで得られる満足のこと。そういう身心になるための方法はいろいろある。自然の中に入ったり、瞑想したり、芸術に没頭したり・・・。私の場合は少し変わっていて、キチンと「立つ」ことで身心を整える。そうすると立っているだけなのに「満足」するのである。その満足は、誰かに評価されたからでもなく、何か特別なものを得たからでもなく、むしろそのような日常的な刺激から離れたところにある快感である。日常は自己を主張し、他者に認めてもらえるように生きていくから、からだやその輪郭はおのずと明確になる。対して非日常の「立つ」ことは、どんどん力を抜いてからだの存在を薄くし、透明に向かっていく。私たちにとって存在を認められることは「快」だが、存在を薄くしていくこともまた「快」なのである。

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悲しい=✖️ 楽しい=○ ではない

2021-03-20 09:06:50 | 「立つ」健康法
 井上陽水の「青空、ひとりきり」の歌詞に「悲しい人とは会いたくもない 涙の言葉でぬれたくはない」とある。悲しい人に会いたくないのは、その人に同情して自分も悲しくなるからだろうか。しかし私だったら、「自分らしくない人とは会いたくもない」と歌いたい。自分らしくない人というのは、無理して自分を作って生きている人。周りの人の雰囲気に合わせたり、偏狭なイデオロギーや価値観にとらわれたりして、素直なココロが隠れている。それは不自然なことである。自分らしくない人と触れ合ったときに、なんとなくその不自然さを感じるのは、その不自然さがその人のからだの上に緊張という形で現れているからである。偏った緊張が、からだに良くないことは言うまでもない。
 私の場合、人と会うとき、単に「悲しい=✖️ 楽しい=○」という構図で考えない。基準になるのは「自分らしい」かどうかである。その人が「自分らしく」悲しいのであれば、それほどイヤではないのである。
 



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「理想の立ち方を身につける会」 2021年3月

2021-03-12 14:07:51 | 「立つ」健康法
 人はどういうときに自分らしく存在できるのだろうか。気の合う友達や家族と一緒のときだろうか、好きなことをしているときだろうか、或いは自然の中にいるときだろうか・・・いずれにしろ人は誰でも自分らしくいたいと願うものである。
 私が日々練習している「立つ」ことは、自分らしくなる方法の一つである。からだと一緒に整えていくことで、無理なく自分らしくなれる。自分らしさというのはココロの状態だけを指すのではなく、からだにもまた自分らしさがある。自分らしくなれないとき、ココロを変えるのは心理的な抵抗などもあり大変だが、からだは比較的素直に変わりやすい。自分らしくなれる場所を周りに求めるのではなく、今この場所で自分らしくなれたら、素晴らしいことではないだろうか。

 「理想の立ち方を身につける会」を3月14日(日曜日)に開きます。関心のある方は是非ご参加ください。詳細はホームページをご覧ください。

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性格は変わらなくても

2021-03-06 10:18:51 | 「立つ」健康法
 同じような出来事にあうと同じように対応してしまうのは、性格に拠るものなのだろうか。行動にはある程度の性格的傾向が反映するが、そのときの身心の状態もまた関係する。それは単に機嫌が良い悪いという簡単なものではなく、からだを含めた総合的なものだ。よい身心の状態は気持が落ち着いているだけでなく、からだの余分な力が抜けて、統一的に使える状態になっている。それは身心のニュートラルと言える状態だが、数値で表すことができず、ニュートラルかどうかを知るには感覚に拠らざるを得ない。しかし一旦その感覚を自得すれば忘れることはなく、明確な基準として日々活用することができる。身心がニュートラルに近いほど、保有する能力を最大限活かすことができるのである。

 自分の性格の悪い処を自覚してもそれを改めることは難しいし、性格を無理に変えることは不自然だ。私は、身心をニュートラルに整えることを第一に考えている。その結果、言動がそこそこの範囲(人に迷惑をかけない程度)に収まればよいのではないかと思っている。

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