気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

気を整えて、トラブル回避

2024-08-31 05:50:46 | 透明を観る
 人間関係のトラブルはいつでも起こりえます。普段顔を合わす家族や職場以外でも、公共の場やSNS上などでも起こります。たとえば被害を受けた(と思った)場合、一方的に相手が悪いこともありますが、そういうことは少なく、多くの場合こちらにも問題があります。といってもそれは具体的な言葉や態度ではなく、こちらの「身心の状態が整っているかどうか」ということと関係があります。常識や科学的な見地から物事を測っていたら、こういうことは分かりません。
 身心が整っていると「そういう雰囲気」が出てくるもので、周りに居る人は、それを感じ取ることができます。「そういう雰囲気」がある人を他者は、攻撃しようとは思いません。「気の質」のようなものが自分より上の者に対しては、悪いことをしようとは思わなくなるのです。単に技術や能力が自分より上だというだけではそうはなりませんが。
 スポーツをしても本を読んでも直接「気の質」は上がりません。物事(万物)が一つにつながっているという意識と感覚を持つことです。普段私も持っていませんので、ときどき身心を整える(気の質を上げる)方法として「透明を観る」をしています。人間関係の問題回避にも役立ちます。

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ラブレターはいつ書くのかではなく

2024-08-25 06:14:30 | 透明を観る
「夜にラブレターを書かない方が良い」というような話を聞いたことがあります。日中は理性が感情を抑制するが、夜は感情が出過ぎるということらしい。酒を飲むと感情が出やすくなるから、そういう感じと少し似ているのかも知れない。しかし感情が乗った方が、気持ちが相手に伝わるかも知れないし、受け手側が理性的な文章(人)よりも感情的な文章(人)を好むこともあるので、何とも言えません。

 ラブレターの成否も一大事には違いありませんが、もっと大事なことは「自分らしい状態で書かれたものなのかどうか」ということです。私の考える「自分らしい」とは、身心が一番整った状態です。そういう「自分らしい状態で書かれたもの」であれば、結果の如何に関係なく後悔はしないものです。人は環境によって自分らしくなれたり、なれなかったりします。親しい人やリラックスできる環境にいれば、比較的自分らしくいられます。職場や公共の場など第三者が多いところでは、多少なりとも緊張して、自分らしくというわけにはいかないかも知れません。苦手な人と一緒にいるときには、自分らしさを失うかも知れません。
  
 「理性的」なことと「自分らしい」ことは、現れ方は似ていますが、そこに至る過程が違います。「理性的」というのは、意識的な働きによるものです。常識や法律や経験などをもとに自分の行動を決めます。「自分らしい」というのは、そういうことを考えなくても、言動が常識の範囲内に収まります。それは身心が整っているから、そうなるのです。 

 常に「自分らしく」いるのは難しいかも知れませんが、ある程度「自分らしく」いるためには、自分を整える術を持っていれば可能です。私は「透明を観る」で、「自分らしさ」を保持しようとしています。
 
 最初の話に戻りますと、ラブレターはいつ書いても良いのです。問題は夜か日中かということではなく、自分らしくあるかないかということなのですから。

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③「すべて 透明」の解説

2024-08-17 06:40:01 | 透明を観る
 今回は「透明を観る」の最後、③「すべて 透明」について解説します。
「すべて」というのは、万物のことです。一つもかけることなくすべてということ。そこには「わたし(自分)」も含まれます。「すべて 透明」ということは、「すべてがつながる(つながってしまう)」ということです(透明には輪郭がありませんから)。「すべてがつながる」ということは、「一つ」になるということです。
 こうして「一つ」という意識(感覚)を持つと、身心が変わります。「透明」はこの「一つ」という意識を持つための手段なのです。

「地球は一つ」だとか「人類は一つ」というような言葉を耳にしたことがあります。しかしそう思う(考える)のは、なかなか難しいことです。それが「透明を観る」をすると、ごく自然に「一つ」だと思えてくるのです(完璧ではありませんが)。

 普段私たちは、物ものが分かれている世界に住んでいます。山があり川があり、電車が通り、花が咲く、そういう世界に住んでいます。こういう世界に生きながら、「一つにつながった(非日常の)世界を、(日常に)取り込むことは、大変意義のあることです。それは「一つ」の世界をユートピアと崇めたり、そこへ逃避することではありません。「一つ」の世界を想像すれば、(身心が整った)本来の自分を取り戻すことができるし、新たに現実(分かれている世界)で生きていく力を持てるからです。

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②「あなた 透明」の解説

2024-08-10 06:48:46 | 透明を観る
 前回に引き続き、今回は ②「あなた 透明」について解説します。
「あなた」というのは、自分以外のどなたかのことです。特定の人でも不特定の人でも良いです。また一人でも多数でも良いです。とにかく誰かを「透明」だと考える。そうすると、自分はすでに「透明」になっているので、この時点で少なくてももう一人も「透明」になったわけです。透明は輪郭を持たないから、ふたりはつながってしまいます(漫画の透明人間は輪郭がありますが、本当の透明にはありません)。「つながる」といっても、物理的につながるわけではありません。透明だと仮定すれば、分けることはできず、そうならざるを得ないということです。
 
 つながった二人の関係は、日常のものとは大きく異なります。日常で「つながる」といえば、親しい人や同志、趣味を同じくする人との間で、初めて「つながり」ます。ここではそのような感情や利害などによってつながるのではなく、淡淡とつながっているだけです。しかし感情を抜いた「淡淡」だからこそ、純粋に(感情や利害などをこえて)つながることができるのです。たとえ日常ではとてもつながりたくはないと思う人でも、ここでは感情を抜いているので、つながることに抵抗がなくなってきます。
 ただ「つながっている」という関係を想像する(知る)だけで、それは実現します。それによって身心が変わります。

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「透明を観る」・・①「わたし 透明」

2024-08-03 07:05:13 | 透明を観る
「透明を観る」では、三つのイメージをします(ココロの中で唱えます)。
  
  ①「わたし 透明」
  ②「あなた 透明」
  ③「すべて 透明」

 今回は①「わたし 透明」について解説します。
 ここでいう「わたし」には、肉体と意識(精神)のすべてが含まれます。意識の中には現在考えているものだけでなく、過去の経験や記憶、未来の計画や夢なども含まれます。そのような「わたし(自分)」を透明にするとはどういうことか。
 いうまでもなく私たちの「肉体」には色がついています。肌には肌の色、髪には髪の色。それを透明だと考えるのです(最初は透明人間だと考えると、イメージしやすいです)。普段私たちはいつでも何らかの意識をもっています。それを「透明」だとイメージする。「意識が透明」だというのは、たとえれば様々な意識の上に「透明」という無色の色を塗っていく感じです。気功ではその練功中に雑念を排除すると言いますが、それを上の例に当てはめれば、「色を抜く」感じです。ここでは「色を抜く」のではなくて、「透明(無色)を塗る」のです。「わたし 透明」とイメージするのはそのためです。
 もちろんそのようにイメージしようとしても、すぐにはできないかもしれません。それでもカラダは変わります。変化の程度に個人差がありますが、「透明を観る」ことによって変わります。このカラダの変化によって、今度は意識もまた普段のものと変わってきます。このココロとカラダの変化こそ、「透明を観る」意味(目的)なのです。

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