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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

習い方・辞め方

2019-02-23 10:42:46 | 太極拳
 「太極拳を学ぶのに大事なことは何だ」と問われたら、「思い込みを減らすこと」と答えるだろう。「思い込み」とは、自分はそれが正しいと勝手に思っていることである。もちろん誰でも多かれ少なかれ「思い込み」はあるのだが、減らすことはできる。私は22年間ほど太極拳を教えているが、上達しない人は、「思い込みの強い人」である。
 他の教室で習っていた人も時々来るが、以前のクセが抜けない人がいる。そういう人は以前のそれが良いと思っているから変わらないのである。からだに付いたクセでも意識を変えれば案外簡単に抜けるものだ。太極拳は全身を使うものだが、初心者の多くは、腕が他処よりも多く動き過ぎる。それは腕こそ太極拳だと思っているからだ。意識が腕ではなく丹田や足に行くと動きの質が変わってくる。
 私が最後に付いた太極拳の先生は「今まで習ったことをすべて忘れてください」と最初に言った。数年間自分が良かれと思い練習してきたものをすべて捨てるということに若干の困惑があったと思うが、先生の言ったことは正しかった。自分を空(カラ)にしなければ、「教え」がキチンと入って来ないからだ。先生の教えを取捨選択できるレベルではないのに、自分の思い込みを持っていたら邪魔にしかならない。
 自分を「空っぽ」にさせてくれる指導者に出あえれば幸せだ。その時、習う方は指導者の一挙手一投足、すべてを受け入れるという姿勢になる。他者に対してそういう思いで向き合うことは、一生のうちにそう何度もあることではない。清濁併せのむことの弊害もあるが、技術の習得がそれを上回る。
 続けて行くうちに、指導者の考えと自分の考えの「違い」を感じることがあるかも知れない。そういう「ずれ」は意識よりも先にからだで感じるものだが、その時はあっさりと辞めればいい。それは自分が確立してきたという成長のしるしなのだから。

「ながら族」にはなれない

2019-02-16 09:24:18 | 
 先日生徒と話していて、「先生は【ながら族】ではないんですね」と言われた。考えたことはなかったが、そうかも知れない。食べながら(つまみながら)テレビを見ることはないし、携帯音楽プレーヤーも持っていない。誰かと食事をしながら話をすることもあるが、興味のほとんどは話にあり、料理に意識がいかないことも多々ある。そういえば数年前にホテルのバイキングで行われた同窓会では、話に夢中になって一皿しか食べなかったことに後になって気がついた。少々残念なこともあるが仕方がない。
 一つのことに「集中する」ということは、私にとって快感である。食事に関心が無いわけではなく、話の方に関心が行ってしまうのである。太極拳の教室でBGMとしていろいろな音楽をかけるが、レッスン中はほとんど耳に入って来ない。クラシックもストーンズもボブ・マリーも私にとっては同じなのである(生徒には時々太極拳にその音楽が合うとか合わないとか言われることがあるが)。
 酒を飲みながら音楽を聴くことがあるが、分析してみると、酒と音楽を同時に味わってはいない。音楽を楽しんでいる中で、酒を飲むときには(音楽を忘れて)、酒だけを味わっているのである。わずかな時間音楽から意識を放して、再び音楽に戻っているのである。これでも十分音楽を楽しむことができる。
 他の人は会話と料理、酒と音楽をどのようにこなしているのだろうか。意識を半々に分けて、それぞれに対する感覚を薄めることなく同時に楽しむことなどできるのだろうか。




作られた精神より、みぞおちの弛んだからだ

2019-02-09 07:59:16 | 「立つ」健康法
 「健全な精神」とは、どういう精神を言うのだろうか。逆境に負けないたくましい精神を言うのだろうか。よく「精神を養う」「精神を鍛える」などと聞くが、どうも私は好きになれない。何となく無理して自分を変えようとしているように思えるからだ。
 からだのためには「その人らしい」精神でいることが良い。人はそれぞれ性格が異なり、行動に早い遅いがあり、大胆・繊細がある。「その人らしさ」も違って当然で、気の弱い人が強い人を羨んだり、自分を卑下する必要もない。仕事でも人との付き合いでも、自分らしくいられないと疲れるものだ。場合によってはそれは大変な苦痛である。
 自分に「合う」か「合わない」かは、みぞおちで分かる。みぞおちが硬くなっていれば、合わないことをしているのである。みぞおちが硬くなれば、全身のバランスだけでなく、自分らしさも失う。見せかけの屈強な身心を持ち、他人に評価されたとしても、その不自然さはみぞおちには現れる。からだを悪くしてまで、合わない理想を目指す必要性はないのではなかろうか。
 社会生活を営む以上、誰でも多かれ少なかれ合わないことがあり、みぞおちが硬くなる可能性はある。時々みぞおちを弛めると良い。私は日々キチンと「立つ」ことで、みぞおちを弛め、バランス(自分らしさ)を取り戻している。
 

からだの形と実感

2019-02-03 06:28:42 | 「立つ」健康法
 常識的なからだの形と実際の感覚には差がある。からだは頭と両手、両足の五体で構成されているが、キチンと立つと、ただ一つのものとしか感じられない。五体であってもつながっていることには違いないのだが、キチンと立てたときのからだは、頭・首・胸・腹…と明確に分けられなくなる。空気の入った風船のようでもあり、竹の筒のようでもある。またそれは形状だけでなく感覚的にも一つに揃う。全身のどの部位も同じ力(質)に感じる。たとえば右腕だけを動かしたとしても、右腕だけに力が入る感じがなく、全身を使っている感じである。動かした右腕と、動かさない左腕や足の質感に差がないのである。数値で測ったわけではないが、そのように感じるのである。
 このような感覚を保ったままでからだを使うことができれば、おそらく部分的な筋肉疲労などを起こしづらいだろうし、からだの力を無駄なく発揮することができるだろう。