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臨済の自信

2021-11-25 11:10:46 | 「立つ」健康法
臨済は弟子に対して自分を信じることの大事さを説き、「信不及(自分を信じることができない)」ことが問題なのだと言った(以下大まかな意訳)。

如今學者不得,病在甚處。病在不自信處。 爾若自信不及,即便忙忙地(今時の学問をしているものが、ものにならないのは、どういうわけか。自信を持てないところに問題がある。自分を信じることができないから、落ち着きがなくあたふたするのだ)。
人信不及,. 便乃認名認句,向文字中,求意度仏法(自分を信じることができないから、文字の中に仏を求めてしまうのだ)。
祇為你信不及、念念馳求、捨頭覚頭、自不能歇(自分を信じることができないから、求めまわってしまうのだ)。

 普段私たちが聞いたり使ったりする「自信」という言葉の裏には、必ずそれにふさわしい「能力」が前提としてある。監督や先生あるいは親が、選手や生徒、子供に「自信を持て」というのは「普段のお前の実力を信じて行えば、良いパフォーマンスができるはずだ」という意味であり、実力もないのにただハッタリで「自信のあるフリをしろ」ということではない。実力の裏付けがあっての話なのである。だから自信がないのは練習や努力が足りないからだと考える。
 しかし臨済は、たとえ禅的理解が低かろうと、現状の自らをそのまま信じればよいと言う。何よりも先に自分を信じること=自信が何よりも大事なことだと考えているからである。自分と言っても、それは自分という小さな個体だけではなくて、周りとつながった自分である。弟子に対して能力の差による差別した見方をしないように求めたのは、差別しなければ、物(人)と物(人)の間の差(距離)がなくなり、ひとつに観えるからだ。そういう周り(或いは仏)と変わらない在り方をしている自分を信じるというのが臨済の自信である。

 私は「キチンと立つ」練習のときに、石垣のイメージをする。石垣の中の一つの石が私で、周りの石石とつながって石垣を形成している、と。そうすると立ち方が変わる。意識(イメージ)にはからだを変える力がある。周りとつながっている、仏と変わらないという意識(イメージ)は、単に弟子を禅的な悟りに導く方便でなく、人としての身心の在り様を変えるものである。

 

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