気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

最初の記憶

2016-10-28 15:19:24 | 
 2、3歳頃のことを憶えている人がいるが、 私にはあまり小さい時の記憶がない。ようやく思いだせるのは、4、5歳頃に父親に連れられて近くの川に行ったことだ(木更津・小櫃川)。土手に向かって坂道があり、その横には車の解体工場があった。土手の途中に水門があり、鉄製の大きなハンドルが付いていて、その上を渡るのがとても怖かった。
 父が釣りをしているときに、私は何をしていたのだろうか。鯉の魚拓もあるし、ウナギを捌いている姿を憶えているから、よく釣っていたはずだが、釣った瞬間を観た記憶はない。小さい私には、魚よりももっと楽しいことがあったのかも知れない。
 ただぼんやりと、川の流れとともに父の姿を眺めていたのではなかろうか。
 
 ただ「立つ」練習をしていても「ヒマ」だと思わないのは、この頃の体験と関係があるかもしれない。

(写真は私が小学生の頃に、父がまな板に彫刻したもの。左側の魚の尾びれに草がかかっている処が上手くできなかったと少々嘆いたのを思い出した。)



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中学の同窓会をひかえ、思い出した3つの小話

2016-10-20 15:50:34 | 
 11月の下旬に、中学校の同窓会がある。中学2年生まで東京の西、日野市に住んでいた。その学校で卒業はしていないが、声をかけてもらった。一部の友人とは付き合いがあるが、35年ぶりに会う人もいそうだ。
 中2で初めてバレンタインデーのチョコレートをもらった時には、予期していなかったので、ぼう然としながらも嬉しさをかみしめた。何故かその娘の友人から電話があり、「ちょっとー、〇〇(チョコをくれた娘の名前)の気持をわかってんの~?」と畳みかけられたのには閉口した。あの時にはできなかったお礼をキチンと伝えたいと思っているのだが…
 引越する時に、巨人の高田繁のサイン色紙をくれたクラスメートもいた。新学期早々、ほとんど話したことも無いのに、この娘は私を放送委員に推薦した。わざわざ挙手して、先生や生徒に「白石君は声が良いから放送委員に良いと思います」と。もっとも悪い気はしなかったのだが…
 18歳で、留学する時に「つかこうへい」の小説を3冊(この愛の物語・ストリッパー物語・ジャイアンツは負けない)をくれた娘もいた。中国の空の下で感動しながら読んだ。高校時代、立川駅で、ホームにいた私に、電車の中から手を振りながら声をかけてくれたこともあった。勇気のいることである。中央線の扉、サラリーマンのおじさんたちの中で、ひときわ小柄なその娘はキラキラとしていた。毎日野球ばかりしていた私には、まぶしすぎた。
 
 これらは私の話だが、もし誰かの物語の中に私が少しでも入っていることがあるとしたら、そんなに嬉しいことはない。

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気功の師

2016-10-13 15:51:01 | 
 一昨日、気功の先生(日本人)に2年ぶりに会った。最初に北京に留学していた時からの付き合いだから、25年くらいになる。サラリーマンを辞めて再び北京で気功を勉強したいと思ったのは、その人の助言があったからだ。気功を修めてくればメシが喰えるのではないかと思えたのは、その人の生き方を見ていたからだ。
 その人の専門は動気功(動作のある気功)である。動作はこの上なく美しい。ただ美しいだけでなく、キチンと経絡を刺激する動きになっている。経絡とは気の流れる道のことで、そこを動きや意識で刺激して、気の通りを良くしようとする。漢方の理論にも精通していることは話の所々に原文が出てくることでわかる。
 私は野口整体を勉強してから、ツボや経絡に対する興味が減り、整体も技術より「意識」と健康の関係に関心が移って行った。先生とは現在、価値観が違うから、話が合わないと感じることもある。それでも懐かしい人と、一時を過ごすことは楽しいことである。

 帰りに新宿から乗った電車は満員で、座っている人と、その前に立っている人14人の内、3人が本(雑誌)を読み、1人が寝て、9人が携帯電話をいじっていた。窓の外をぼんやり見ていたのは私だけだった。

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健康法の第一義

2016-10-07 14:02:26 | 野口整体
 野口晴哉氏は、その著作の中で「健康法とは結局虚心平気を維持することで、食べたり動いたりすることが第一義のものではない。静かに息することが続けられてのみ真に虚心であり平気であり得る。」と言っている(野口晴哉著作全集1・病人の問題二・昭和十六年)。
 現代も当時と変わらず、食にこだわり、運動をすることで健康になれると考えている人が多い。これは栄養や運動が必要ないと言っているのではなく、そういうことは意識して行わず、本能の欲求に従って行うことだと言っている。
 
「自分は思ふ。如何なる考え方でも、もし人間の息を乱さず、堂々と真直ぐに行動できるなら、それは正しい健康への道だと。」(同上)
 健康法を守ることに必死になっている人は息が上がっている。人にイヤなことを言ったり、意地悪をしているときにも、気が上がっている。気が上がらない生活が、そのまま健康法なのである。
 「虚心平気」とはココロにわだかまりのないことを言うが、身心共に落ち着いて、自分らしい状態である。それは、健康への正しい理解と、からだの訓練によって実現できる。健康とはどういうことなのか、野口氏の著作を繰り返し読めばわかる。からだを整える方法は「活元運動」や「愉気法」などあるが、坐禅や瞑想でもいい。私の場合は「ただ立つ」と整う。

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