気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「意識」がからだを歪ませる・整える

2014-06-28 08:40:43 | 健康

 からだを物質的な面から見れば、それは「自然」そのものであるが、外見は「自然」とは言い難く、周りの動植物とは明らかに違う何かを漂わせている。周りと調和していないことを「不自然」と言うが、まさに人の姿勢(外見)には、周りの自然とは調和できない「不自然」さがある。
 その原因は、緊張と弛緩のバランスが整っていないことにある。からだのある特定の場処に力が入り(或は抜けて)、バランスが崩れているのである。からだが歪むのは、からだそのものの使い方の問題よりも、「意識」の使い方によるものの方が大きい。意識が、物事をどう受け止めているのかということがそのまま、からだの上に現れるからだ。喜怒哀楽、不安・心配・憂い・・・すべてが緊張・弛緩となって現れる。だからたとえ外的な要因があったとしても、姿勢の責任は自分(の意識)にある。
 人の姿勢や動作は他の動物と比べて、百人百様で(悪い意味で)個性的である。動物は、同類であればよく似た姿勢で動くものだ。人は大脳の発達と引き換えに、からだを歪ませたと言える。

 「意識」によって歪ませた姿勢を、元に戻すには「意識」をきちんと使うことだ。例えば私の主宰している気気、立つ練習或は野口整体、坐禅、瞑想などをする時間を持つことだ。その時にからだがどうなっているのかを感じてみればいい。

 社会生活の中でいつも平常心でいることは大変に難しいが、せめて短い時間でも、意識をきちんと使う時間を持てれば、自分をリセットすることの手助けになるだろう。


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ジャニスはライオンか小鳥か

2014-06-20 19:47:58 | 

 久しぶりにジャニス・ジョップリンが聴きたくなった。遺作となった「パール」のA面に針を落とす。キレのいい「MOVE OVER」のリズムが、部屋の空気に緊張を与える。「CRY BABY」の冒頭、?CRYと♪BABYの間の空白から、ジャニスの息遣いが伝わる。

20140620

 ブルースやロックではライオンのように吠えるそのボーカルは、どんなに激しいバックバンドの演奏でも存在を保ち続け、それでいて決して浮いてしまうこともない。二十代の頃、「JANIS」という記録フィルムを観に行った。小さい身体をいっぱいに使って唄っていた。足で床を蹴りつけるように唄っていたのは、彼女流の声の出し方だったに違いない。

 いくら吠えても、バランスは崩れない。悲しみに泣きわめいても、身体は震えてはいない。聴く者には、いかにも彼女自身が歌のヒロインのように映るだろう。しかし私は、深い情念によって、ココロやカラダがコントロールできなくなったジャニスを観てみたかった。そこにはシンガーではなく、自分と向き合う彼女がいるはずだからだ。或は彼女がもし、何があっても決して音程を外すことのない小鳥だったとしたら、私は誤解していたことになる。


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竿をおいて沢に立つ

2014-06-12 20:45:46 | 風景・自然

 午後になって雨がやんだので、高尾山まで散歩に行った。琵琶滝コースには沢に降りられる道がある。水辺に降りた瞬間、「ヒヤツ」とした。心地よい冷気が、谷の間を流れているのだ。そうしようと考えたのでもなく、そこに立った。ただ、立っていた。

 しばらくすると、水音が急に聴こえ出した。透明感のある高音、ボコボコとこもった音、激しい怒りや、淡々とした表情もある。多種多様な音色が至る所から聴こえて来る。一つ一つの音を聴き取り、味わう。

 後になって考えてみれば、石一つあれば水が当たって音がするのは当然である。石や岩は数限りなくある。川の形や、水量、落差、或は木の枝などの障害物によっても音は変化するのだ。

 私は時々沢釣りに行くが、こんな風に沢と向かい合ったことはない。竿を持つということは、目的があるわけで、それは観念となり、沢のほんの一部分しか観ることができなくなる。竿をおき、無目的にその場に立てば、実相をつかむまでは行かないにしても、対象に、より深く近づける・・・ただの散歩がいい。


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もう一度観たいのは、私の中の変わらぬ思い

2014-06-07 10:59:15 | 
 もう一度観たい映画、といわれて真っ先に浮かぶのが「100人の子供たちが列車を待っている」というチリの映画である。この映画を観たのは、渋谷の「ユーロスペース」という小さな映画館だった(この劇場は隠れた名作をよく上映してくれる)。
 1990年当時、秋に北京への留学を決めていた私は、その前の半年間に、「東光徳間」という中国映画を配給する会社でアルバイトをしていた。社の人たちは、何も知らない私に親切で、中国映画を日本に紹介するためにとても意欲的に働いていた(ここでの素晴らしい体験は、機会をあらためて紹介したい)。そこでチケットを頂いたので、幸運にもこの映画に出会えたのである。
  
20140607
 

 映画の内容(チラシの解説によると、この映画は女性教師と子供たちが、映画を手作りしていく記録フィルム)はほとんど憶えていないが、観終わったあとに、爽やかな感動があった。その「爽やかさ」が今でも続いているのだから、やはり自分にとっては大事な映画なのである。23歳と47歳では感受性が違って当然だが、変わらないものもあるだろう。日々の生活に揉まれながらも変わらずに残っているもの、それが「自分」なのかも知れない。いつかその確認作業を、この映画でできることを楽しみにしている。


 

20140607_1

 今朝のニュースで、小さな映画館がシネマコンプレックスに押されながらも頑張っていると報道していた。人生に悩む?若者に、忘れられない映画を観せてくれた「小さな映画館」の役割は小さくない。





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