「カラダの歪みを整えること」と、「カラダの使い方を良くすること」と、どちらが大事かと問われれば、後者だと答える。何故ならいくら「カラダの歪みを整え」ても、その使い方が悪ければ再び歪むが、「カラダの使い方を良く」すれば、歪みづらくなるからだ。
この両者は、相反するものではない。 「カラダの使い方を良くする」ための、途中に「カラダの歪みを整えること」がある。「カラダの歪みを整えること」は最終目的ではなく、手段である。
多くの人は、一時「カラダの歪みを整える」ことで満足し、その先には目が向かない。確かに程度の重い歪みを治すことは、専門家の方が上手いかも知れないが、多少の歪みを整えたり、歪みづらいカラダを作ることは、自分でもできる。と言うより、自分でしかそういうカラダは作ることができないのだ。
自分で自分のカラダを作るということは、カラダの感受性を磨くことである。感受性のレベルが上がると、カラダの使い方が悪くて余分な力が入った時に、すぐに察知し、弛めるなどの対処ができる。精神的な緊張も、すぐに察知できるから、それを弛められる。このように小さな異常に、直ぐに反応できるようになるのだ。
普段、自分の感受性と向き合っていない人は、カラダの発する信号である緊張や弛緩が分からないから、相当悪くなってからようやくカラダが悪くなっていることに気がつく。
感受性を尊重した生活を続けていくと、緊張や弛緩は自分を守り・活かすための自己調整だということがわかり、感受性は信じるに値するものだと思えるようになる。
言うまでもなく、カラダは自分が「使うもの(動かすもの)」であり、他者がサブ的に補助することはあっても、主体は常に自分にある。しかしながら、いざ治療を受けるという時には、医者や手技療法者に全てを任せてしまっている。
感受性という規準を自分の中に持つことができれば、治療家に対しても一方的に受身にならずに済むだろう。何よりも、肉体的に「自立」していくことは、自由で、嬉しいことなのである。