気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

カラダの自立

2014-02-28 14:25:53 | 健康

 「カラダの歪みを整えること」と、「カラダの使い方を良くすること」と、どちらが大事かと問われれば、後者だと答える。何故ならいくら「カラダの歪みを整え」ても、その使い方が悪ければ再び歪むが、「カラダの使い方を良く」すれば、歪みづらくなるからだ。 

 この両者は、相反するものではない。 「カラダの使い方を良くする」ための、途中に「カラダの歪みを整えること」がある。「カラダの歪みを整えること」は最終目的ではなく、手段である。

 多くの人は、一時「カラダの歪みを整える」ことで満足し、その先には目が向かない。確かに程度の重い歪みを治すことは、専門家の方が上手いかも知れないが、多少の歪みを整えたり、歪みづらいカラダを作ることは、自分でもできる。と言うより、自分でしかそういうカラダは作ることができないのだ。

 自分で自分のカラダを作るということは、カラダの感受性を磨くことである。感受性のレベルが上がると、カラダの使い方が悪くて余分な力が入った時に、すぐに察知し、弛めるなどの対処ができる。精神的な緊張も、すぐに察知できるから、それを弛められる。このように小さな異常に、直ぐに反応できるようになるのだ。

 普段、自分の感受性と向き合っていない人は、カラダの発する信号である緊張や弛緩が分からないから、相当悪くなってからようやくカラダが悪くなっていることに気がつく。

 感受性を尊重した生活を続けていくと、緊張や弛緩は自分を守り・活かすための自己調整だということがわかり、感受性は信じるに値するものだと思えるようになる。 

 言うまでもなく、カラダは自分が「使うもの(動かすもの)」であり、他者がサブ的に補助することはあっても、主体は常に自分にある。しかしながら、いざ治療を受けるという時には、医者や手技療法者に全てを任せてしまっている。

 感受性という規準を自分の中に持つことができれば、治療家に対しても一方的に受身にならずに済むだろう。何よりも、肉体的に「自立」していくことは、自由で、嬉しいことなのである。


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「自分らしい」カラダ

2014-02-21 20:28:42 | 健康

 「自分らしい」とは、どういうことか?

 「自分らしい」と思えるのは、おそらく無理をしていない状態であろう。それは素の欲求の範囲内、或いは実力の範囲内で、話したり、行動したりしている状態である。

 身体の面から「自分らしさ」を考えてみると、余分な緊張や弛緩の無い状態、リラックスしていても、だらけていない状態などは「自分らしい」と言えるだろう。しかしながら、こういう理想の状態を常に保持することは不可能だ。人は社会生活をしなければならず、周りの環境によって緊張が高まったり、反対に力が抜けすぎたりすることは避けられないからである。

 「自分らしくない」ときには、必ず緊張が伴う。見えるところでは、表情が強ばる、声が震える、肩が上がる、アゴが上がる・・・見えないところでは、水落が硬くなる、足首が緊張する・・・こういう「自分らしくない」ときに、想ったり、考えたりしたことが「素晴らしい」内容である可能性は少ない。

 また、「自分らしく」いることは、自分だけではなく、他者に対しても影響をもたらす。ある人の緊張や不自然さは、周りの人にも伝わるものだ。周囲の人は、その人がその人らしいことを望んでいるのであり、その人が素養以上を演じても、不自然さを感じることはあっても、嬉しく思うことはないのだ。

 以上のような理由から「自分らしさ」を保つことは大事なことである。「自分らしさ」が崩れる場合でも、できるだけ崩れを少なくする、或いは崩れても、できるだけ早く理想の状態に戻るようにする。

 その具体的な手段として、「立つ」練習をしている。それはただ立つのではなく、身体の中の凡ゆる場処の力を丁寧に抜き、重心を落とし、丹田の充実を作る。身体の歪みが甚だしい場合には、先に修正してから行なう。

  

 * 3月から、このような練習をする会を始めます。期日が決まり次第、「気気の会」ホームページにて発表します。


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師は弾いても語らず Gちゃん⑨

2014-02-15 11:01:45 | Gちゃん(友人・ギターの師匠)

 名古屋に住む知人のZさんからお誘いがあったので、ギターの師匠であるGちゃんと一緒に、13日(木)から一泊二日で行ってきた。Gちゃんが、現地(中華料理屋の音響設備の整ったステージ)で弾き語りライブ(Zさんは二胡の演奏)をするので、同行した。何故か私も1曲(「酒と泪と男と女」を中国語で)歌わせてもらえることになった。元々この歌を中国語に翻訳してくれたのはGちゃんとZさんである。この2人の前で、この歌を唄うのは30年ぶりかも知れないと思うと感慨深いものがある。先日、Gちゃんとギターの練習を8時間もした(酒5時間・ギター3時間)ので、なんとかなるのではないかと思っていたが、本番では緊張して演奏が速くなってしまった。それでも横でGちゃんがギター(ソロなど)を合わせて弾いてくれたお陰で、何とか形になった。Gちゃんが一人で唄った「崔健」の「一無所有」や蘇芮の「一様的月光」などには凄まじい迫力があり、中国人の観客を大いに喜ばせた。歌や語りのマイペースな振る舞いは、さすがとしか言い様がない。本人は緊張したと言っていたが、本当だろうか。緊張してもこれだけのことができるのなら、素晴らしい。

 Zさんの二胡の演奏は、大陸の悠久な歴史と、そこに生きた人々の息吹を現している。哀愁のある音色は、一瞬にして時空を超えてしまう。
 

 ところで出発の日、ひと波乱あった。気の早い私は、待ち合わせの「新横浜」駅には30分前には着いていた。Gちゃんも横浜線に乗り、「新横浜」に向かっていた。彼の乗った電車は、予定では新幹線(のぞみ)の発車時刻の10分前に着く。ところが新幹線改札付近で待っていても、なかなか現れない。ジリジリしていると出発の4分前にメールがきた。

 「のりこした、ぎりになるので新幹線にのってくれ(原文のまま)」。

 Gちゃんは、次の「菊名」駅で運良く丁度戻りの電車に乗り換え、「新横浜」に着いてからはダッシュで新幹線に駆け込み、何とか間に合ったのだった。息を切らしたが、自分らしさを失わないのは「人物」である(運がイイのも、人物の条件である)。
 


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名曲を勝手に解釈する⑩

2014-02-06 11:12:14 | 音楽

 「あー果てしない 夢を追い続け」

 「果てしない夢」だと誤解していた。そうではなく「あー果てしない」で一度切れて、その後「夢を追い続け」なのだ。この世は果てしないのだ。果てしないものを果てしなく生きること、それは「夢を追い続け」て行くことだ。

 「大都会」ならばそういう生き方ができると思って、田舎から上京することに決めた「俺」。

 「裏切りの言葉に 故郷を離れ」・・・故郷を出るということは、少なからず故郷を裏切ることになる。親や友人の描く未来から、勝手に居なくなるのだから・・・

 実際の東京は、生きていくのに精一杯で、大変な日々。

 「見知らぬ街では 期待と不安がひとつになって 過ぎ行く日々などわからない」

 「交わす言葉も寒いこの都会(まち) これも運命(さだめ)と生きてゆくのか」

 「言葉が寒い」のは、東京弁が冷たいからではない。どの地だろうと、そこで働いて生きていくために使う言葉が、優しいだけであるはずがない。

 逃げ出したい( Ran away  Ran away)、そう思いながら、

 「今日と違うはずの 明日へ」向かって生きていく。

 故郷を出る時には「裏切り者」だと言われた俺が、今度はその「大都会」に裏切られる。思い通りに生きられない自分を嘆きながらも、何とか頑張ってきた。少しづつだがようやく明るさも見えてきた。

 「裏切りの街でも 俺の心に灯をともす」

 そしてついに、今まで溜め込んできた力が、ここで一気に溢れ出す。

 「朝焼け静かに空を染めて 輝く陽をうけ 生きていくのさ

あふれる熱い心 とき放し」

 一晩中眠れずに、朝を迎えた。窓から朝焼けに染まる大都会を観た。その時初めて、自分の内側からフツフツと力が湧いて来るのを感じたのだ。

 「あーいつの日か 大空かけめぐる」

 東京で成功したいのではない。金持ちになりたいのでもない。「大空をかけめぐりたい」だけなのだ。もしかしたら、この感覚は、東京人にはわからないものかも知れない。東京に対する劣等感のようなものが根底にあれば、その克服は東京人になることで、もたらされるものではない。田舎・東京、成功・失敗・・・そういう比較・相対性からの超越。東京さえも超越した処へ行くことが、自分にとっての克服なのだ。その解放感を「大空かけめぐる」と歌った。

 「大都会」はCDよりも動画で観た方が良い。この男たちの東京に賭ける想いが伝わってくる。

20142006


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