気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

試合の途中で帰る癖

2018-06-30 08:54:34 | 
 子供の頃、父親に連れられて何度かプロ野球を観に行った。後楽園、神宮、川崎球場…。どの試合も7回頃になると父が「帰るぞ」と言った。その理由を訊いたことはないが、試合後に人ごみの中を帰るのが嫌だったというよりも、もう十分だったのではなかろうか。そこまで試合を観れば、満足するしないに関係なく、もう良いと…。父は野球が好きだったが、どのチームのファンでもなく、勝敗にこだわりがなかった。「ちょっと味わえばいい」のである。
 2年くらい前に、阪神ファンの友人に誘われて巨人阪神戦を観に行ったが、7回くらいで先に帰った。ずいぶん前にヤンキースの松井がオープン戦で巨人と対戦した時も、西武対ロッテ、西武対オリックス・・・どれも7回頃になると帰りたくなって、帰った。父と私、先天的な性格は違うが、癖(行動)は似ているのかも知れない。

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棘は自然に出て行った

2018-06-24 13:37:18 | 「立つ」健康法
 2週間くらい前、草を刈っていると指に棘が刺さった。抜こうとしたが、奥に入り込んでいて取ることが出来ない。ぶつけたり、押したりすると鋭利な痛みがあり、気にはなるが放っておいた。ある本に、「患部に気を通すと棘が出て来る」とあったので試みようかとも思ったが、結局放っておいた。
 先日、鮎釣りの最中、ふと指を見ると、棘の刺さっている処から血が出ている(どうして出血したのかは不明)。帰宅後、指の棘は無くなっていた。自然に出て行ったのだろう。
 私は積極的に患部に気を通すことはしなかったが、仕事や「立つ」練習で、全身に気を通している。そのことと今回のことは無関係とは言えない。気を通すことは、からだの機能を十全にハタラカスことになると考えているからである。

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最近の太極拳教室から

2018-06-16 05:44:45 | 太極拳
 生徒から、太極拳のビデオを撮らせてほしいと言われ、教えたところまでなら良いですよとオッケーした。数日前、今度は「腕なしの太極拳を撮らせてほしい」と言われた(腕を使わない太極拳を見せたことがあったので、それを憶えていたのだろう)。私は、彼が基本練習に関心が向いていること嬉しく思った。腕なしの型をした後に、基本練習を幾つか足した。片手を胸、もう一方の手を丹田に当てて、上下の開合(からだを伸ばす・丸める)。両手を胸の左右に当てて、丹田の上下に合わせて、左右に開く。それに捻りを足したもの…。手があるとそれが目印になって開いたり閉じたりしていることが良く分かる。
 教室で時々、私の掌の形が見えないと言われることがある(生徒たちは総じて「腕」に関心がある)。しかし手の形や腕よりも大事なことがある。たとえば開合。それは背中を見れば分かる。丹田が上がれば背中は丸くなり、下がれば伸びるからだ。ちなみに、私の教室では手の形は、従来のものから変えて練習することもある。たとえば拳で打つ動作を、掌でやってみる。そうすると全身のバランスが良くなり、気持ちよくできることがある。拳だと力み易いのだろう。
 開合ができるようになったら、「立ち方」にも関心を持ってもらいたい。「立ち方」が良くなると、(良い意味で)力強さが減り、落ち着いた太極拳になる。

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「立つ」ことで育つ感覚

2018-06-10 07:46:03 | 「立つ」健康法
 「立つ」ことを指導することは難しい。なぜなら「立つ」ことは数値化することができず、感覚で理解するものだからである。上手く立てているのかどうかは、本人の、或いは観ている人の感覚で判断される。
 感覚は一定の物ではなく、練習を繰り返していくことで磨かれるものだ。生活の中で感覚に耳を傾ける(謙虚にからだの声を聴く)時間を持てば、感覚は育っていく。
 野口整体の金井省蒼先生は「整体とは感受性を高度ならしむること」であると言われたが、「立つ」ことでも感覚(感受性)を高めることができる。立つことで感覚を磨き、その磨かれた感覚で「立つ」ことを良いものだと自ら認められるようになる。

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からだを抜きにして本心は語れない

2018-06-02 09:20:58 | 「立つ」健康法
 「立つ」練習をしていると、面白いなと思うことがある。「立つ」練習の前後で気分がまったく変わるからだ。異なる意識の状態(モード)が二つあるようだ。一つは普段の生活の時の意識で、もう一つは「立って」いる時の意識。「立つ」練習をする前に、「やりたくてしようがない」などと思うことはなく、どちらかと言えば面倒で、やりたくはならない。他に楽しそうなことがあれば、そちらを優先するだろう。しかし不思議なことに、実際に「立つ」練習をすると、先の気分はどこかに消えて、いつのまにか「立って」いること自体を楽しんでいる。「立つ」というあまりに地味なこの形に快感があり、このまま「立っていたい」とさえ思うのである。

 「立つ」前も「立った」後も、どちらも同じ私である。しかし、考え方や感じ方が違う。私たちは自分の本心を知っている気でいるが、果たしてそうだろうか。「立つ」前の私は相対的な考え方を主にしたもので、「立った」後は非相対的な考え方が優位になり、身心共に周りとつながったような感じがある。いつの、どの気持ちを本心とするかによって、本心は変わってくるのである。後者の方は、からだを使った訓練によって実現される。

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