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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「何もしない」という治療

2013-12-20 10:38:17 | 野口整体

 医者は、患者自身の治癒力などは重視しないが、野口整体では、患者の「力」を観る。人には治癒力があり、その力が発揮できているのかを観る。もしそのような力が発揮できていないようならば、少し働きかける。その働きかけは少なければ少ないほど良い。もし、(自分で治る)力があれば、何もしない。自身の力で治るのが一番良いからだ。この「何もしない」ということを、医者はできない。治療することが仕事なのだから、それはできないのである。整体などで商売している人も難しいだろう。何もしなければお金は貰えないからだ。

 医者や整体師、そして患者自身が「治療ありき」ではなく「何もしない」という選択肢を持ったら良いと思っている。「病気・痛み」即「治療・薬」ではなく、取りあえず、放っぱらかしにしてみる。何もしなくても良くなって行くことに気がつくだろう。「何もしない」からこそ良くなっていくのである。「何もしない」ことは、治癒力を最大限に活かすことになるからだ。もちろん全ての病気を放っぱらかしにすれば良いと言っているのではない。出来る範囲で少しづつ試してみたらどうかということである。風邪などは、薬を飲まなければ、初めは長くかかるかも知れないが、続けていくうちに次第に身体が磨かれて(敏感になり)、短い時間で抜けて、身心が整う快感も感じられるようになる。

 自分のからだは自分で整える。その方法を日々考えている。来年もそういう一年になりそうだ。

 

 来週から沖縄に遊びに行ってきます。友人と再会するのが一番の楽しみです。気の澄んだ御嶽やグスクも訪ねます。それから釣りも少しは。

 それではまた、来年に!


「不偏」を目指す

2013-12-13 14:58:57 | 

 先週の続き。話をいったん美から日常に移す。私たちは生活の中でも滅多に「顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立つ」という姿勢を取らない。一つは身体の問題。大抵の人は、左右どちらかに捻れていたり、重心を左右どちらかの足に多くかけていることが多い。要するに偏っている。野口整体では先天的な(過剰でない)偏りを「体癖」と呼び、その人らしさを発揮する姿勢として認めている。

 二つ目は「気分」の問題。正面に向かい合って立つというのは、緊張感の強い形である。それが平気だとすれば、余程親しい間柄、恋人同士くらいのものだろう。ではなぜ緊張するのか。想像するに恐らく、自分の情報(感情・身体のバランスなど)が、相手に最大限伝わってしまう姿勢だからではないだろうか。自分の身心に(相手に対してというだけでなく、自分に対しても)自信が持てなければ、隠したくなるものだ。積極的に使うならば、正面に立つことで、相手に自分の全てを見せて、信を得るということもできるだろうが。

 こういうわけで、「顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立つ」という姿勢は、有りそうで無い形、簡単そうで難しい形なのである。しかし私はこの「形」にこだわりたい。それは歪み(偏り)を否定することではなく、不偏の意味を追いかけることである。この一番シンプルな姿勢の中で、何かを工夫する(筋肉の緊張・弛緩のバランスを取る)ことが、そのまま健康法になり、そして不偏でありながら自然体である処に、美を創り出すことができるのではないかと思っている。


「不偏」の美

2013-12-06 14:32:34 | 

 顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立っている・・・こういう姿勢の写真や絵を見たことがない。もちろん何処かにはあるだろうが、あまり多くはないだろう。美の世界では、真直な(真直に近い)姿勢は敬遠されるのだろうか。その理由を考えてみたい。

 「偏り」は美の世界から観れば決して悪いことではなく、むしろバランスを壊さない範囲内で偏らせることこそ、美の表現だとも言える。だからカメラマンや画家が、被写体(モデル)には何らかのポーズを取らせるのが普通である。

 では、全く偏りの無い「不偏の」姿勢(最初に述べた姿勢・・・顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立つ)では、美を創りだすことができないのだろうか。形で誤魔化せない分難しいが、不可能ではない。形の上で制限があるのならば、形の中(質)で表現をすれば良いのだ。それは筋肉の緊張と弛緩のバランスを絶妙に取ることで創りだせる。高度に脱力する技術と、バランス感覚を磨けば、その「静の極地」を現すことができるだろう。「偏り」を「動」だとすれば、「不偏」なものは「静」である。「静」は限りなく力が抜けてはいるが、「死」ではない。「静」の中には形に現れない「動」もまた含んでいる。そうでなければ「立つ」ことはできないし、喜怒哀楽を併せ持つ人のココロと共鳴はしない。躍動や情熱を現す「動」よりも「静」のほうが、精神性を筋肉の緊張に載せて現すことができる。

 ところで作品は、優れていればいるほど優れた鑑賞者を要求する。絵や写真を観る時に、モデルの腕や足よりも顔に意識が多くいってしまうような鑑賞者は、優れた鑑賞者ではない。観る方のバランスが崩れているのに、どうして被写体の全身のバランスなど上手く把握することができるだろうか。もしかしたら、作者が鑑賞者のレベルの低さを知って、不偏の姿勢を作らないのかも知れない。作ったところで理解されないと・・・。或いは作者自身に、不偏の姿勢の善し悪しを見抜く身体感覚(規準)が無いのだとしたら、当然そのような作品は作れはしない。不偏の作品の少なさは、単にその姿勢が魅力的ではない(面白くない)ということではなく、上のような問題があるのではないかと思っている。