野口整体には愉気法という手を当てる技術がある。気の相互作用により、からだを整えようとするものだ。私は以前「気気の会」という手を互いに当て合う会を開いていた。参加者が、終わった後に気持ちよさそうにしている姿を見て、それなりに意味を感じていた。ただ、当時はさほどでもなかったのだが、後になって気になったことがある。参加者が手を当てるよりも、受ける方を好んでいたことである。
気功(特に治療などを行う外気功)などでは気の物質的な面に重きをおき、それを使おうとする。愉気法でも手を当てる人の姿が気を送っているように見えるせいか、物質的な気を出しているような想像をしやすい。現にそういう部分もあるのだろうが、それよりも「意識(の持ち方)・イメージ」の方がよりからだの変化と関係がある。受けている人は、手を当てる人から丁寧(大切)に扱われる(手を当てられる)ことが、何よりもからだを変えることになる。受ける人はうつ伏せになるだけでも力が抜けるものだが、加えて手を当てる人に対して、「して頂いている」というような謙虚な気持ちが湧いて来る。こういう気持ちこそからだを変えるのである。
手を当てる人にも当然「意識」の変化がある。キチンと手を当てようとする型にともなって意識もまた集中し、受けている人の変化(弛んできたこと)を手で感じれば、自分の存在の意味(人として役に立ったこと)を確認し、結果的に「整う(快を感じる)」のである。
現在私は手を当てずに「立つ」ことを通してからだを整えることを指導している。「意識」でからだが変わるのだから、一人で「立つ」だけで十分なのである。「立つ」ことは他者と関わらない分完全に自分の「意識」によるものだ。しかし、「意識」だけでも変わらない。それに反応する敏感なからだが必要である。この二つをキチンと使うことでからだを整えられる。
気功(特に治療などを行う外気功)などでは気の物質的な面に重きをおき、それを使おうとする。愉気法でも手を当てる人の姿が気を送っているように見えるせいか、物質的な気を出しているような想像をしやすい。現にそういう部分もあるのだろうが、それよりも「意識(の持ち方)・イメージ」の方がよりからだの変化と関係がある。受けている人は、手を当てる人から丁寧(大切)に扱われる(手を当てられる)ことが、何よりもからだを変えることになる。受ける人はうつ伏せになるだけでも力が抜けるものだが、加えて手を当てる人に対して、「して頂いている」というような謙虚な気持ちが湧いて来る。こういう気持ちこそからだを変えるのである。
手を当てる人にも当然「意識」の変化がある。キチンと手を当てようとする型にともなって意識もまた集中し、受けている人の変化(弛んできたこと)を手で感じれば、自分の存在の意味(人として役に立ったこと)を確認し、結果的に「整う(快を感じる)」のである。
現在私は手を当てずに「立つ」ことを通してからだを整えることを指導している。「意識」でからだが変わるのだから、一人で「立つ」だけで十分なのである。「立つ」ことは他者と関わらない分完全に自分の「意識」によるものだ。しかし、「意識」だけでも変わらない。それに反応する敏感なからだが必要である。この二つをキチンと使うことでからだを整えられる。