気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

寝る前に「立つ」

2017-04-29 08:00:56 | 「立つ」健康法
 教室では、「理想的な立ち方」を身に付けるためにイメージを使った練習をしている。それを教室の最初にするよりも、後にする方が上手くできる。基本練習や太極拳、動功などをした後の方が、上手くできるということだ。教室に来てすぐの時には、まだ日常を引きづっていて、なかなか集中できない。それが、各種の練習を経て、次第に脳のモードが変わってくる。「騒がしい」から「静か」へ。
 家で練習をしていても、すぐにモードを変えるのは難しい。用事が控えていたり、心配事があったりすると尚更集中できない。夜、寝る前に練習すると、比較的集中できる。後に用事はないし、身心共に休む方へ向かっているからだ。そうして深いリラックスを実現した後に眠りにつけば、質の良い睡眠になることが期待できる。

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ココロとカラダの距離

2017-04-23 16:37:29 | 「立つ」健康法
 ココロとカラダが常に影響し合っていることを身心一如という。
 「キチンと立つ」練習をしていると、ココロとカラダの間に距離があるように感じる。よいバランスで立てたときには、少しカラダがよそよそしくて、自分のカラダではないように感じる。ココロとカラダが少し離れている感じだ。それでいて、ぎこちなさはない。このように感じるのは、アタマ(意識)上位から、カラダ上位に規準が移ったからではないかと思っている。普段はいろいろな事をひっきりなしに考えていて、いわゆるアタマデッカチの状態になっているのが、整うとカラダの存在がキチンと認識出来るようになるのだろう(普段はキチント認識できていないということ)。
 カラダのカラは、抜け殻の「殻」から来たと聞いたことがある。整った状態で立つと、私たちは今生に於いて、魂(意識)がカラダという器(入れ物)を借りて使用しているのではないかという気がしてくる。

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イメージは「思い込み」を壊すために

2017-04-16 09:51:41 | 「立つ」健康法
 「立つ」練習をする時、各種イメージを使う。イメージの目的を一言でいえば、「思い込み」を壊して、ニュートラルな状態に戻るためである。
 みずおちを弛めると、丹田腹式呼吸が始まる。その時に「ヨシ、腹式呼吸ができた!」と満足してしまうと、そこで終わってしまうが、更に進めていくと、腹式から手足を含めた全身呼吸に変わっていく。そこでもまた「ヨシ、全身呼吸ができた!」と満足してしまうと、そこで終わってしまう。次に「からだを一回り大きく」想像すると、より力が抜けていくのが分かる。以降も「輪郭を消す」イメージをしたり「周りのものと同じ(価値)」イメージをしていくと、からだは良い方向へと変わっていく。
 調子よくできる一つのイメージにスガルこともまたこだわりであり、一つの緊張を生む。結局、これで良いという絶対のイメージはなく、その時のこだわりを壊せるものが良いイメージなのである。

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からだの意欲

2017-04-09 15:48:02 | 「立つ」健康法
 先日の新聞に、英国の心理学者の話が出ていた。
 「毎朝、人間が寝床から起き上がることを可能にする力は何か。それは『楽観』だと」
なるほどと思った。そして私はもう一つ
 「それはからだの意思だと」言いたい。
からだはアタマで考える以前に既に起きる準備をしている。時期が来ると寝ている形から、起きることを求める。 意欲は、アタマだけの世界にあるのではなく、また外にだけ向けられるものではない。からだが本来のからだであり続けようとするのは、からだの「意欲」である。それに気が付くのがアタマなのである。

 からだの意欲だけを観れば、意欲的な人ばかりである。しかしからだの意欲を感じ取ろうとする人は少ない。それは決して難しいことではなく、力を抜いてからだの声を聴こうとすれば、自ずと分かるようになるものなのだ。

 「ただ立つ」練習をしていると、立っているだけで気持が良くなってくる。それは本来人の持っている感覚だから、生きているだけで気持が良いのだ。

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静的な刺激

2017-04-02 11:11:12 | 「立つ」健康法
 人は刺激を求める生き物だ。旅行などのレジャー、読書、映画鑑賞、友人と会ったり、仕事、インターネットをするのも刺激である。しかし人は刺激を求めないこともある。刺激を求めることを「動」とするならば、求めない方は「静」である。風呂に入ってぼんやりしたり、当てもなく散歩をするのは「静」である。私が提唱する「ただ立つ」ことも「静」である。
 求めないと言っても、刺激を外に求めないだけで、内に「静」を求めているのである。それでは何故人は「静」を求めるのだろうか。「静」にもまた本能を充たす快感があるからだ。快感は身心共に感じるものであり、アタマの世界だけを充たすものではない。
 動的な刺激は目に見える形で現れるから、静的なものよりも分かりやすい。私たちの日常の意識もまた動的な刺激を優先し、静的なものを軽視する。しかし生活が動的なものばかりになると、身心のバランスを崩しやすくなる。だから静的なことをする時間を、意識的に作るべきである。静的なものには、動的なものにはない、深い安らぎのような「快」がある。

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