二人の音楽(ピアノ)先生(現役・元)から、期せずして同じ話を聞いた。指導するときに、生徒が音楽(ピアノ)を嫌いにならないようにだけは気を付けたということ。この言葉には「たとえ私のこと(授業)を嫌いになったとしても」という前置きが付く。謙虚な言葉である。音楽の素晴らしさを知っているから「私」よりも「音楽」を大事に考えることができる。
翻って私はどうだ。太極拳をやりたくて入って来た人が、私のこと(指導)が嫌で、来なくなった人もいるだろう(特にスポーツクラブなどでは)。太極拳に対して先の二人のような気持ちを持っていないから「私でなくても何処かで太極拳を続けられたらいい」と思わない。形だけを追究する太極拳に魅力を感じないし、健康効果が優れているとは思ってはいない。私にとって太極拳はからだの使い方を身に付ける手段の一つである。
野口整体には本来、他の教室を勧められるだけの深さと意味がある。しかしせっかく参加しても、ただ活元運動と愉気法を定期的にしているだけでは、太極拳の型と変わらない。野口晴哉氏の思想(健康観)を、自分の生き方として日常生活の中に体現していくことを目指している指導者がいれば、喜んで紹介するだろう。