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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

沢の雪

2016-11-24 11:12:55 | 
 

霜月の雪は 沢にも降り続く
流れの音を消し 葉の紅を白で塗り替える

岩魚は人影に怯えることも無く石の下に潜み
時折 枝に積もった雪の塊が落ちるが 驚きはしない

この溪の閑けさに 
人の何を合わせることができるだろう

二人の音楽教師

2016-11-17 14:29:48 | 
 二人の音楽(ピアノ)先生(現役・元)から、期せずして同じ話を聞いた。指導するときに、生徒が音楽(ピアノ)を嫌いにならないようにだけは気を付けたということ。この言葉には「たとえ私のこと(授業)を嫌いになったとしても」という前置きが付く。謙虚な言葉である。音楽の素晴らしさを知っているから「私」よりも「音楽」を大事に考えることができる。
 翻って私はどうだ。太極拳をやりたくて入って来た人が、私のこと(指導)が嫌で、来なくなった人もいるだろう(特にスポーツクラブなどでは)。太極拳に対して先の二人のような気持ちを持っていないから「私でなくても何処かで太極拳を続けられたらいい」と思わない。形だけを追究する太極拳に魅力を感じないし、健康効果が優れているとは思ってはいない。私にとって太極拳はからだの使い方を身に付ける手段の一つである。
 野口整体には本来、他の教室を勧められるだけの深さと意味がある。しかしせっかく参加しても、ただ活元運動と愉気法を定期的にしているだけでは、太極拳の型と変わらない。野口晴哉氏の思想(健康観)を、自分の生き方として日常生活の中に体現していくことを目指している指導者がいれば、喜んで紹介するだろう。

感受性を発揮する条件

2016-11-10 18:01:53 | 「立つ」健康法
 人は何かをする時によく「気が向いたら」と言うが、たとえ気が乗らなくても「ただ立つ」健康法ならばやってみるといい。立っているうちに良くなってくることがある。
 そもそも人の感情は信じるに値するほど一定ではない。天気や腹の減り具合で変わってしまうものなのだ。「食べたいものを食べるのが(その時に必要な栄養が摂れて)良い」という話があるが、そこにはあくまでキチンとした状態でという前提がある。感受性は身体を守るために大事なものだが、それはキチンとした身心の状態で初めて発揮されるものである。先ずは身心の状態を偏りのないニュートラルな状態にすること(立つ練習で実現できる)。その上で感受性を基準にしていけばよい。

最初の記憶2

2016-11-03 15:56:32 | 
 前回に引き続き、小さい(4~5才・1971〜1972年)頃の記憶をもう一つ思い出した。それは家の前の田んぼで父と一緒に「ギンヤンマ」を捕まえた記憶。田んぼと言っても、背の高い草が生えていたので、田んぼの傍の草むらだったかも知れない。
 父と二人で、背の高い草の影にしゃがんで、隠れていた。父は柄の長い虫取り網を持ち、ギンヤンマの現れるのを待つ。ギンヤンマが頭上を通過する瞬間、一気に網を伸ばして、それを捕まえる。
 ギンヤンマはトンボの中では別格だ。ひときわ大きく、力強く、そして美しい。主観だが「オニヤンマ」も大きいが何となく弱弱しく、シャープさがない。「シオカラトンボ」や「アカトンボ」がプロペラ機なら、ギンヤンマはジェット機だ。速度もあるが、軽快に方向を変えるから、簡単には捕まえられない。
 ギンヤンマを捕まえると、その網を地に伏せ、網の上からそーと指で掴んだ…
 ギンヤンマは写真で見れば緑色だが、草むらの中から見上げた姿は、磨かれたようにピカピカと光っている。