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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

自分で自分を認める

2018-10-28 10:38:31 | 「立つ」健康法
 自分のことを自分で評価したり認めたりすることは、他人に認められることよりも難しい。自分のこととなると判断が厳しくなったり甘くなったりと偏りがちである。いずれにせよ判断の基準になるのは技術や能力である。

 対して「立つ」ことには「技術や能力」といった基準がない。イメージを使って良い立ち方になった時、「比較」という判断基準が消える。自分の過去や他人と比較したりせず、無条件で「今現在の自分」という存在を認めることができる。

 キチンと「立つ」だけで、自分で自分を認めることができる。それはまた「生きている力」に気がつくことである。


「立つ」時の意識とからだの変化

2018-10-21 15:01:15 | 「立つ」健康法
 
 人は「何も考えない」ことなどできるのだろうか。たとえできたとしてもそれにどういう意味があるのか。私は「立つ」練習をするときに、「何も考えない」ことを目指してはいない。眼に見えるものをできるだけ差別なくとらえようとしている。意識とからだを使った「立つ」練習の過程を以下に述べる。

意識を変える
(本気でそう思っていなくても)取りあえず意識を変えてみる(相対的ではない意識を持つ)。たとえば、先に挙げたように「眼に見えるものを差別なくとらえようとする」でもいいし、或いは「物事がすべてつながっている」と思ってもいい。

意識を変えるとからだも変わる
(本気でそう思っていなくても)取りあえず意識が変われば、からだはその影響を受けて変わる。それは普通の体操や健康法で変わる程度ではなく、もっと深く変わる。

からだが変わって再び意識が変わる
からだが変わった影響を受けて、意識が変わる。最初(①の時点では)「取りあえず」と仮に思った意識が、今度は本当にそう思えて来る。たとえば「物事がすべてつながっている」と思えてくる。完全とは言えないが、かなりそう思えて来る。その後は再びからだが変わる。意識とからだが互いに影響を受けて繰り返し変わっていく。

 以上の実践で到達した身心の状態は「渾沌」或いは「無」に近いものだ。「渾沌」とはすべての物がありながら、それぞれが一つの名、一つの意味として分節されていない状態。しかし「渾沌」はまだ途中であり、終点ではない。次に「渾沌」の上に「実(有)」を現していかなければならない。その話はいずれまた。

 

無目的

2018-10-13 09:13:09 | 「立つ」健康法
 渓流釣りをしていると他人にいうと、自然を満喫しているように思われることが多い。しかし実際の釣行では「釣る」ことだけを考えていて、自然を味わっている感はない。目的があると、自然の中にいても自然と一体になることができない。自然の写真を撮ったり絵を描いたり、鳥を観ることも同様だろう。
 大自然を前にして、何をするわけでなくただそれを眺めていると、自然と一体になる感じがすることがある。ただぼんやりと眺めている状態を「無目的」と言ってもいいだろう。「目的」というのは、数ある選択肢の中から一つの方向を目指すということである。いくら選択肢があっても、何も目指さなければ、それが無目的である。人の日常は目的ばかりであり、滅多にこういう無目的な状態にはならない。しかしこのように無目的な時、身心は普段とは違って深い安らぎを感じられるようになる。 
 目的を持つことは自然なことであり、またそれでこそイキイキと生きられるものだが、はじめから目的ばかりを追求していると、身心が落ち着かなくなる。時に「無目的」な行動をして、身心のバランスを回復させた方が良い。無目的と目的の両立。私の練習している「理想の立ち方」は、一度「無目的」を目指して、後から「目的」が(アタマで考えるのではなく)自然に内側から湧いて来る方法である。

 

「みぞおち」スイッチ

2018-10-06 09:30:53 | 「立つ」健康法
 オンオフという言葉は、オンが仕事でオフがプライベートということらしい。これは仕事を中心にして見た場合である。からだを中心にして見ると、全く違ってくる。
 からだにとってオンオフ切り替えのスイッチはみぞおち(鳩尾)にある。みぞおちは、その状態が硬いか弛いかである。アタマを使い過ぎたり不安があると硬くなり、リラックスして自分らしくなると弛む。当然自分らしい方が良いのだから、それをオンとすると、オフの時間の方が圧倒的に多いことになる。教室などで、生徒たちにみぞおちの様子を(押したりして)観察してもらうと、硬い人が多い。少し硬いというのも含めれば、大多数の人が硬いようだ。だからと言ってその人たちが自分らしくないという訳ではない。少しくらい硬くたって、問題なく生活することはできる。しかしからだの面から観て行けば、みぞおちの硬さは、からだの他処の緊張とも関係があり、全身のバランスを失ったり、偏ったからだの使い方をすることにつながっていく。
 だから私は日々「立つ」練習をして、みぞおちを弛め、全身のバランスを回復しようとする。できるだけオンの時間でいたいと思うからだ。