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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

渓相が変わる

2018-04-28 08:42:15 | 渓流・鮎釣り
 今季、桂川(山梨・桂川漁協)の渓相(川の様子)がずいぶん変わったと感じている。昨年の大水の影響だろうか、淵が浅くなったり、曲って流れていたものが真直ぐになったりしている。それから餌にする川虫「クロカワムシ(トビゲラの幼虫)」が激減した。時期が遅れているだけなのだろうか、私がいつも捕まえている数か処だけで減ったのだろうか。
 沢の水の量も年々少なくなっている。最上流部で、水が消える処がだんだん近づいている(川が短くなっている)ことに愕然とすることもある。水もまた無限ではないのである。
 人が年を重ねれば顔が変わるように、川もまた歳をとるのである。
 
 そんなわけで先日は地元の小さな川で「オニチョロ(カワゲラの幼虫)」を捕まえてから、桂川に行った。その小さな川も「圏央道」ができた時には川虫が捕れなかったのだが、再び捕れるようになった。文明に翻弄される虫たちにも、たくましい生命力がある。


 

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カエルの卵と充実した「からだ」

2018-04-22 06:39:27 | 「立つ」健康法
 先週釣りに行ったとき、川横の水たまりにカエルの卵を見た。透明の柔らかいものに包まれている黒い点。そういえば奥多摩では、川虫を捕まえているときに、サンショウウオの卵が網に入ったことが2、3度あった(もちろん卵はあったところにもどした)。
 話はずれるが、私はこういうゼラチンのような質感のものが好きだ。くずきりやゼリー、寒天、タピオカ、杏仁豆腐…食べるものだけではない。物腰が柔らかい人もいい。緊張感が無いからホッとするのかも知れない。
 日常生活は、誰でも多少なりとも緊張しているものだ。仕事をしていない時でも公共の場所にいるときなどは、それなりに「構えて」いる。私の生徒たちも教室で「ようやく力が抜けました」などと言う。
 力が抜けると柔らかい雰囲気になるが、ダラダラしているのではない。カエルの卵もふにゃふにゃと柔らかいが、決してだらけているのではなく、それは生命力の充実した状態なのである。


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桂川(山梨・桂川漁協)の釣り

2018-04-12 15:58:23 | 渓流・鮎釣り
 解禁から沢でしか釣れなかったが、去年の記録に「4月13日に本流で29センチと27センチの山女を釣った」とあったので、今日は期待して本流へ。去年釣れたクロカワムシを捕まえようと、石の裏を探してみるがまったくいない。仕方がないから持参したミミズと、捕まえた川虫(キンパクとオニチョロ)でやることにした。最初の1時間はアタリすらなかったが、大淵の渕尻手前くらいでようやく掛かった。虹鱒である。3月下旬に行われた虹鱒釣り大会で生き延びたものが、ここまで来たのだろう。
 その後一度退渓し、20分ほど歩いて入渓(高い処を行けば川通しで歩けるらしいが、怖くてとても無理)。川の流れに乗せて川虫を流してみると、ズンズンズンと強い引き!果たして今度は山女だった。その後はアタリが何度かあったが、針には掛からず。
 私の行く処がマイナーなポイントということもあるが、今日は釣り人を一人も見かけなかった。釣果もさることながら、自分のペースで釣行できたことが何よりも良かった。帰り道、畑の横を歩いていると、顔見知りのおじさんが「のらぼう持ってきな!」と。これもまた趣のひとつである。




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まず「立とう」

2018-04-07 07:23:41 | 「立つ」健康法
 私たちが普段何気なく思ったり考えたりすることは、必ずしも自分の本心だとは限らない。機嫌の良し悪し、お腹の減り具合などでも変わってくるからだ。
 「立つ」練習は、やってみるとこの上なく気持ちがよくなるものだが、普段から練習している生徒は少ないだろう。理由は「その気にならない」からだろう。「その気になったらやろう」と思っている人は、その気にならなければやらない。その気にならないのは、今現在の身心のバランスが整っていないからだと考えたらいい。バランスの悪いからだが発想することなんか放っておいて、とにかくまず「立って」みたらいいのだ。
 私や生徒も「立つ」練習をすると、ほとんどの場合からだが変わる。と言うことは、普段はバランスが多少なりとも乱れているということである。相対的に物を見る思考が強すぎるから偏るのだろう。それは普通の生活では問題がないかも知れないが、私にとっては大きな問題である。バランスを回復してから思ったり考えたりすることの方が、「本当(自分らしい発想)」に近いのである。出来るだけ、本当の自分で生きたいのだ。

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キラキラ②

2018-04-01 06:56:29 | 「立つ」健康法
 前回の「キラキラ」の話のつづき。世間で「キラキラしている」とは、何かに夢中になっている人や、好きなことに打ち込んでいる姿を言うのだろうか。だとすれば、私の使う「キラキラ」とは違う。
 私は太極拳の指導をしている時に、生徒の太極拳を見て「美しい」、「キラキラしている」と思ったことは一度もない。しかし、キチンと「立つ」練習をしている時に、「美しく」、「キラキラ」と感じたことは何度もある。たとえればそれは自然体の美しさで、執着から解き放たれた様なその人らしい状態である。
 では何故太極拳ではなく、「立つ」時にあるのか。太極拳は動作であるから、どうしても「形」を考えてしまう。それから「自分が太極拳をしている」という意識は消えることがない。普通に考えれば、それは当たり前のことで悪いことではない。しかし、自分を確立して他者との違いを明確にしていく姿勢が、「キラキラ」しない原因である。おそらくそういう相対的なものの考え(意識)だけでいると、身心は緊張して「偏る」のだろう。からだを整えるためには、普段とは違う「もう一つの意識」が必要である。それは周りと繋がっているような意識、老子の「妙」仏教で言えば「空」。もちろん私の様な凡人がすぐにそういう意識を完璧に持つことはできないのだが、そういう方向に向かう(目指す)ことはできる。いや、向かうだけでも相当身心は変わるのである。
 

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