シゲティ(ヨーゼフ)の弾くバッハの「無伴奏ソナタ第2番」のアンダンテを聴いていると、ロバート・ジョンソンのブルースを想い出す。ギターの低音弦をガッガッガッ・・・とベース音を鳴らしながら、時々高音でソロを入れる感じが似ている。
シゲティの演奏には「間(ま)」がある。音と音のあいだに無音の「間」がある。無意識のうちにその空白の「間」に集中させられ、つぎの音を渇望させられる。渇けば、水は甘露に変わる。
シゲティの音は枯れた響きを持つが、同時に、乾いた喉を潤す泉のようなウエットな感じを有している。
シゲティ(ヨーゼフ)の弾くバッハの「無伴奏ソナタ第2番」のアンダンテを聴いていると、ロバート・ジョンソンのブルースを想い出す。ギターの低音弦をガッガッガッ・・・とベース音を鳴らしながら、時々高音でソロを入れる感じが似ている。
シゲティの演奏には「間(ま)」がある。音と音のあいだに無音の「間」がある。無意識のうちにその空白の「間」に集中させられ、つぎの音を渇望させられる。渇けば、水は甘露に変わる。
シゲティの音は枯れた響きを持つが、同時に、乾いた喉を潤す泉のようなウエットな感じを有している。
現実には無いものなのに、有るように見えることを「まぼろし」と言うが、有っても数が稀少なものもまた「まぼろし」である。それから「儚い(はかない)」ものも「まぼろし」と呼ばれる。
とはいえカゲロウの生命だけが短く、儚いのではなく、人の一生もまた儚く、「まぼろし」である。
陶淵明(以下、私の自由訳)
吾生夢幻間・・・私は夢、まぼろしの間に生きている。
人生似幻化・・・人生はまぼろしの化したもののようだ(化・・・変わる。化ける。)。
李白(以下、私の自由訳)
処世若大夢・・・この世にいるということは、大きな夢の中で生きているようなものだ。
人生は短く、儚いだけでなく、有るようで無く、無いようで有る「まぼろし」なのかも知れない。たとえ「まぼろし」でも十分、生きるに魅力的な場所である。
「まぼろし」という言葉は、父から教わった。7、8歳の頃、父に連れられて近くの川まで魚を獲りに行ったときに、私は川の中に金魚のような小魚を観た。川の水は濁っていたが、赤い色をした魚体が底へ向かって行くのを観た。それを父に言うと、「まぼろし」だろうと言った。
「まぼろし」とは実際には無いものを、有ると錯覚することである。子供の私に、そんなことが理解できたかどうかわからないが、世の中には、はっきりと「有・無」では分けられない「もう一つの観方」があることを知った。私は何か得体の知れないものを観てしまったようで、不気味だった。その時に感じた「怖れ」のようなものが、「まぼろし」という言葉の響きと一緒になり、身体に残った。
「まぼろし」は「まぼろし」のままでいるのがいい。もしあの時、その赤い魚を網ですくっていたら、父から「まぼろし」という言葉を教わらなかっただけでなく、一切を忘れていたかも知れない。30年以上も「まぼろし」と「怖れ」はくっついたままだ。
太極拳をするときに、腰を反ってはいけないと言うが、本当にそうだろうか。丹田を上下すれば、当然背中や腰がその影響を受けて動く。丹田を上げれば、背中は丸く(猫背に)なり、尻は落ちる。丹田を下げれば、背中は伸びて、尻が上がり、腰も反る方向へと動く。
丹田を下げるときに、きちんと股関節が左右に開くこと。それに前後方向への力のイメージを加え、力の方向を上下・前後・左右に均等に振り分けることができれば、形として腰が反っていても問題はない。もし上下・前後・左右に力を分散することなく、ただ腰を反れば、バランスを失う。