前回の続きです。
普段の相対的な見方を離れ、「モノを一つに観ようとする(無わたしの実践をする)」と、なぜ身心が変わるのかと言えば、おそらく、他への警戒心が薄れ、緊張感が消えて、つながっていることからくる安心感をからだが受け取るからではないかと思います。モノが一つにつながれば、自他の区別がなくなるわけで、当然敵もいなくなり、他から自分を守る必要がなくなります。
それから「モノを一つに観る」ということは、努力してそういう見方をするのではなくて、誰でも生来的に、あるいは本能的にそういう見方をすることを求めているのではないかと考えています。人は相対的な見方をするとともに、「モノを一つに観たい」とも思う。「モノを一つに観ようとする」ことは、理屈や目的のためにするのではなく、人の自然な欲求ではないかと思うのです。
普段の相対的な見方を離れ、「モノを一つに観ようとする(無わたしの実践をする)」と、なぜ身心が変わるのかと言えば、おそらく、他への警戒心が薄れ、緊張感が消えて、つながっていることからくる安心感をからだが受け取るからではないかと思います。モノが一つにつながれば、自他の区別がなくなるわけで、当然敵もいなくなり、他から自分を守る必要がなくなります。
それから「モノを一つに観る」ということは、努力してそういう見方をするのではなくて、誰でも生来的に、あるいは本能的にそういう見方をすることを求めているのではないかと考えています。人は相対的な見方をするとともに、「モノを一つに観たい」とも思う。「モノを一つに観ようとする」ことは、理屈や目的のためにするのではなく、人の自然な欲求ではないかと思うのです。