気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

からだは丸い

2015-01-30 10:00:32 | 太極拳
 からだはひとつである。当たり前すぎて聞き流してしまう人が多いだろう。しかし実感としてそう思い、そのような使い方をしている人は少ない。
 野口整体の創始者である野口晴哉氏は、からだをひとつだと思っていた人である。だから身体の何処に触れても、そこではない別の処を治すことができた。普通の人はそうはいかない。「肩が痛い」と言われれば肩に、「腰が痛い」と言われれば腰に手を当てたくなってしまう。
 からだはボールだと思えばいい。丸いボールなら、何処に触れても同じである。足と腕は違うものだと思ってしまうのは、言葉(概念)と形にとらわれているからだ。物事を分節する言葉が無ければ、からだはひとつになる。言葉よりも意識(イメージ≪映像や感覚≫)でからだを一つにしていく。
 太極拳も然り。(私は読まないが)マニュアル本にはおそらく、腕をどうしろ、足はどうしろ…と書いてあるに違いない。しかしその通りにしても上手くはならないのは、それ以前にからだのつながりが無いからである。動作をする前に、イメージでからだを上下・左右・前後に拡げると、からだは球状になっていく。見た目には上下に細長いからだが、感覚としては丸いボールのように感じるのである。そうなれば後は、そのつながった感じを大事に(維持して)動くようにすれば良いのである。

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太極拳で大事なこと

2015-01-23 11:04:20 | 太極拳
 「太極拳を学ぶ時、一番大事なことは何だ」と問われたら、「感受性を磨くことだ」と答える。太極拳は型(套路)だけを学べば良いと思っている人は多いが、その外形には、からだの内側(筋肉やココロ)の様子が現れているのである。からだの内側を整えられずに、良い太極拳はできない。からだの内側を知るために「感受性を磨くこと」が必要なのである。たとえば重心を左右(前後)に(6対4或は7対3)で分けなければいけないときに、5対5になってしまう人がいるが、感覚が鈍い(自分の重心を把握できていない)のである。最も多い偏りは、腕だけで太極拳をしようとする人。全身をつなげて使うことができず、腕だけで動いてしまう。それは本人の意識が、からだの内側に向かわず、ただ外形を追い求めてしまった結果である。
 大事なことは、からだの内側の感覚に意識を向け、緊張と弛緩のバランスを整え続ける(余分な力を抜く)ことである。それが、「感受性を磨くこと」になる。
 上記のようなことを教室で話すのだが、わかってくれる人もいるが、そうでない人もいる。中にはとにかく太極拳のような形を真似て、動いていればそれでいいという人もいる。太極拳は型をいくら繰り返しても良くなることはない。ただ慣れるだけである。それは毎日歩いていても歩き方が良くならないのと同じである。このような人に「感受性を磨くこと」の大事さを説いても伝わることはない。本人の意識(観念)が変わらない限り、動作も変わらないのだが・・・。

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意欲の湧くのを待つ

2015-01-15 10:06:16 | 「立つ」健康法
 意欲は、自分で出そうと思っても出せず、ましてや人から言われて出せるものではない。
金や物、異性などは意欲を喚起する動機にはなるが、絶対ではない。
 意欲は自然に内側から出てくるものである。それを待たなければならない。しかしいつまでたっても意欲が湧いて来ない人もいる。それは「待ち方」が悪いのである。キチンと脳とからだを休めることだ。意欲を出そうなんてことも考えず、身体の各処の力を抜いて、ただ「立つ」。静を極めると動が始まるのである。中国語には「物極必反(物事は極限に達すると必ず逆方向に動き出す)」という言葉がある。疲れ切ったときに休みたくなり、良い睡眠がとれるのは、動を極めて、良い静が得られたからである。
 私たちは日常、たとえ何もしていないようでも、何かをしていることが多い。テレビやパソコンをしているのも、脳を使った「動」である。だらだらとした生活は、中途半端に「動」を続けていることである。それに対して風呂や睡眠だけでは、完全には休養が取れない(静を全うすることはできない)。日常の中に、少しでもキチンと休む時間を入れることが、睡眠の効果を上げ、意欲の湧きやすい状態を準備することになる。私の提唱している「ただ立つ」ことは、その手段になり得る。

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野口整体、純粋なままで

2015-01-08 14:47:45 | 野口整体
 私が野口整体を勉強し始めた(18年位前)頃と比べて、野口整体の認知度は上がっているようだ。それは整体協会が活動を続けていることと、野口晴哉氏の著作が近年相次いで出版され、多くの人が野口整体に直接・間接的に触れる機会が増えたことと関係があるだろう。
 しかし野口整体が、今の日本でメジャーになるのは難しいだろう。それは整体協会の体質云々などという問題ではなく、現代日本人の持っている健康観が、野口整体の健康観を受け容れるには無理(抵抗)があるからである。自然に依拠する野口整体は、無病や痛みを取るだけの治療を目指してはいない。あくまでも自然であるからだをきちんと使い切ること(全生)を目指している(それが自然であるならば、死もまた受け容れようとする)。どんな形であれ延命を望む多くの人々とは、正反対である。
 
 野口整体を、自分の生活や施術に「ちょっとだけ取り入れる」ということは、本来有り得ない。何故なら、野口整体は技術である前に思想であるからだ。思想を形として具現化したのが技術であって、思想のない技術が表面的に有ったとしても、それは野口整体ではない。野口整体の「活元運動」や「愉気法」「整体操法」も治療のためではなく、本人の生を全う(全生)する手助けのための技術である。目指すべき方向が違っていれば、たとえ技術が似ていても別物である(別物も悪くはない。別物であっても、野口整体以外の整体であるならば思想と関係なく、ただ効果の有無で技術を採用することが出来るだろう)。突き詰めれば、野口整体に関わる人は「野口整体的生き方をするか、しないか」という二者択一になる。
 私はどうか。私は少々変わっていて、自身の活動と生き方を、野口整体のワクにはめるつもりはない。確かに以前、野口整体を4年間程、熱海の金井省蒼先生について習ったことがある。この時期に勉強したことは大きな財産になり、その後の生き方に大きな影響を与えた。しかし、私には野口整体以外にも禅や老荘思想、太極拳、気功など興味のあることが幾つもあった。父親や友人からの影響も少なくなく、そういうことが全部集まって、私の思想になっている。だから私は何か一つのものを思想の柱とすることはできない。ただ自分らしく生きようとすると、結果的にそれは野口整体的な感じになるのである。野口整体には、純粋にその形を保ってもらいたいと思っている。18年前に野口整体を勉強しているときの喜びは、そこにあるから。
 


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