気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

手を触れない整体

2019-03-30 10:10:28 | 「立つ」健康法
 野口整体で背中を観察する時には、背骨に沿って上から下に指を滑らせる。そうすると指が止まる(止めたくなる)処が数か所ある。硬かったり、凹んでいたりする処である。筋肉が緊張・弛緩という形で現れているのである。そこに愉気(手をあてる)や整体操法をすると、硬い処が柔らかくなったり、凹んでいた処が平らになったりする。
 野口整体を学んでいた頃(20年程前)は、そうしてからだが変わるのは手の技術、或いは気の物質的な作用によるものだと思っていたが、今ではそれよりも精神的な(意識)変化の方が大きいのではないかと思っている。今現在の意識のありかた(持ちよう)がそのまま、からだに反映しているからだ(意識とからだの連絡が鈍い人は変化が少ない)。
 手を触れずに、意識(イメージ)を変えることで、からだは変化する。私自身は「立ち」ながらイメージをするだけでからだを整えている。生徒たちの場合は、ある程度は変わるが、最後に手を当てればより変化するという具合である。「立ち」ながらイメージするだけで整えられるのが理想である。そうすれば他人(治療家)への依存心もなくなるし、自分のからだに自信が持てる。それには「立つ」練習を通して、意識がからだにキチンと反映するからだを作ることである。
 具体的にどういう意識が良いのかは現在いろいろと試しているところで、結論を出すまで時間がかかるだろう。今の段階で言えることは、それは単なるポジティブシンキングや美しい世界をイメージすることではないということである(それらのイメージでも変わる部分もあることは否定しない)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太極拳から理想の「立ち方」へ

2019-03-23 10:11:46 | 「立つ」健康法
 北京に留学中に太極拳を始めた私は、教室で一番下手だったが、そんなことは全く気にならず、とにかく太極拳をしていることが嬉しくて仕方がなかった。最初に習ったのは「簡化24式太極拳」である(ここでは、簡化24式太極拳の是非は問わないで話を先に進める)。
 太極拳の何がそんなに私を嬉しくさせたのだろうか。ゆっくりとした静かな動きが新鮮だったのか、美しさを見たからなのか、気持ちが良かったからなのか…はっきりとしたことは分からない。少なくともアタマでこしらえた基準に適ったから始めたわけではない。健康に良さそうだ、これくらいなら運動音痴の私でもできる、誰かにやってみたら良いと勧められた…このような動機ではない。感覚的に「合っていた」のだろう。 
 私にとって太極拳は今では、からだの使い方を考える手段になった。お陰で私は「理想の立ち方」を研究することができる。太極拳を始めた時には、将来「立ち方」を研究するようになるなんて、微塵も思わなかったのだが…。野口整体にしても、老荘や禅の勉強も、その時々で興味のあることをしてきたことが、結果的に「つながった」のである。元々一人の私が思ったことなのだから、違うことをしているようでも、どこかで「つながって」くるのは当然なのかも知れないが…。それにしても面白いことだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みぞおちの役目

2019-03-16 09:14:42 | 「立つ」健康法
 

 人はからだの調子が悪いとみぞおちが硬くなり「立ち方」が悪くなる。みぞおちの硬さが取れて柔らかくなると「立ち方」がよくなる みぞおちが硬くなると、呼吸が浅くなり不快になるが、みぞおちが悪いわけではない。みぞおちは硬くなってくれたのである。硬くなるから自覚できるし、処置のしようがある。そのように自分を守るために緊張しているものを、弛める必要があるのだろうか。みぞおちは必要な時には硬くなるべきなのだが、そうでもないときにも硬くしている人があまりにも多い。みぞおちを硬くするクセがついているのである。過剰な自己防衛態勢にあると言ってもいい。そういう場合には、意識的にみぞおちの力を弛めた方が良い。

 みぞおちを弛めるために野口整体の「邪気の吐出」法は良い方法である。取りあえず、今現在のみぞおちの硬さを抜くことができる。しかし同時に考えなければならないのは、どうしたらみぞおちが過剰に硬くならずにすむかということである。
 先に「自分を守るために緊張している」と述べたが、何から自分を守るのかと言うと「他者」である。競争相手や敵だと思うことはもちろん、(常識的には当然なのだが)自分以外の人を「他人」だと思う(相対的な観方をする)だけで、わずかな緊張は生じるのである。だからと言って人類皆兄弟などとは思えない。禅の世界では自他の区別はないが、凡人が簡単にそう思えるものではない。
 凡人でもイメージを使いながら、キチンと立つことをしていくと、自他の区別が薄くなってくる。それだけでみぞおちは弛み、立ち方が変わるのである。これは一時のものに過ぎないが、それでもやるのとやらないのとでは大違いである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚と沙

2019-03-09 09:56:32 | 渓流・鮎釣り
 私は川が好きだ。たとえ竿を持っていなくても、川があるならばその横を歩きたい。しかしもしその川に魚がいないと分かったら、興味は激減する。私は海や湖での釣りはしないが、そこに魚がいるならそれだけで嬉しくなる。そこで魚を釣る可能性が、将来に全く無いわけではないからである。しかしたとえ魚がいても、それが公園の池や水槽の中では、釣人としての本能は喚起しない。
 
 昔、タクラマカン沙漠に「楼蘭」という王国があったことは、井上靖の小説で知った。ずいぶん前に敦煌・ウルムチ・トルファン・カシュガルには行ったが、楼蘭には行くすべがなかった。もし今、そこへ行けるチャンスがあるならば、喜んで行くだろう。人の居ない沙漠に行きたいと思うのは何故だろう。それは眼前の魚を取る「釣人」としての私ではなく、もう一人の私が、残された沙の中に過去の幻影が観られると思っているからである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢から始まる

2019-03-01 15:08:53 | 渓流・鮎釣り
 桂川(山梨)が解禁したので、早速沢釣りへ。橋の傍にはいつも先行者の車が止まっているのだが、幸運なことに今日は車がない。
 4メートルほどの竿に、1,5メートルくらいの糸をつけ、がん玉を打つ。ミミズを針につけたら適当なポイントに静かに沈める。
 曲り角の浅いポイントで、水面が動いているのが観えた。水中は観えないが、数匹の魚が泳ぎまわっているようだ。そこへミミズを投入すると、何とそこにいた魚が下流の私の方へ逃げて来た。25センチはあろうかという岩魚である。しかも私の存在に気が付かない。その岩魚の鼻先にミミズをピンポイントで落としてみるがまったく相手にされない。食欲がないのだろうか。解禁当初はこういうことがよくあるのだ。
 ある場所では、ミミズを沈めずに、水面を滑らせるように流してみると、下から山女が飛びついて来た。
 
 久しぶりに、沢の流れを聴き、岩を登り、倒木を跨ぎ、山女のリズミカルな魚信を感じることができた。こうして私の渓流釣りは毎年、沢から始まるのである。




 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする