気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

感受性を拓く

2023-12-28 08:46:21 | 「立つ」健康法
 身心が整ったときに「ああ気持ちが良い」と感じられるのは、感受性があるからです。しかし調子が悪くなっても分からない、「感度の鈍い人」も多くいます。感受性は自分の身心を知るための大事な基準です。
 私は25年くらい前に野口整体を4年間ほど習いました。「啓哲塾」と呼ばれる教室では互いの身体に手を当て「愉気」をして、整体操法の練習をしました。そこでの訓練が身心の感受性を拓くことになったと思っています。
 私の教室の生徒でも20年くらいやっている人は、数年の人と比べて感受性がグンと高いです。繰り返し練習することで、感受性は磨くことができます。
 
 太極拳は動作ではありますが、「形」ばかり練習しても上手くはなりません。正常な身体感覚がないと進歩しないのです。動かすところ(特に腕)だけに力を入れて、バランスを失ってしまう人は多いです。バランスの悪さは見た目にも現れますが、本来感覚で感じ取るべきものです。しかし感覚(感受性)が鈍っていれば気がつくことができません。ですから太極拳を学ぶときには、動作だけでなく、身体感覚をよくしましょうと言っています。

 道や公の場所で歩きづらいと思うことがあります。それはスマホや音楽などに気をとられている人が多く、そのような人は周りに意識がいかないからでしょう。感受性が正常に発揮できない状態だといえます。所謂「空気」は読まなくても良いですが、相手(周囲の人)の「気」は読まないと、知らず知らずのうちに人に迷惑をかけてしまうのではないかと思います。

 今年も「キチンと立つ」練習中に、多くの「気づき」がありました。裡側から自然に湧いてくるような感じです。それは自分をニュートラルな状態に近づけたときに出てきます。
 「自分のことがわからない」、「自分のやりたいことがわからない」という人は、無理してそれを考えるのではなく、まずは身心をニュートラルに戻すことから始められたらどうでしょうか。少しづつ自分の欲求がわかるようになると思います。

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第三の意識

2023-12-02 09:19:27 | 「立つ」健康法
 私たちは普通に生活しているときに、理性的なときと、感情(ココロ)的なときがあります。実際にははっきりと分かれているのではなく、どちらもあり、どちらが優位かということになります。理性的というのは、他者を意識した行動で、感情的というのは、自分を中心に考えることです(悪い意味ではありません)。

 私は理性的・感情的以外に、「もう一つの意識の状態」を付け足したいと思っています。その状態を表す言葉がないので、とりあえず「その状態」と呼びます。「その状態」は、自分と他者のどちらか一方に意識を置かずに、どちらも含みながら一つに見る(一つだと考える)ことです。
 
 理性的・感情的という二つの基準だけだと、結構生きづらいものです。特にココロを至上のものとしてしまうと、ココロが折れれば何もできなくなります。第三の意識「その状態」を持つことで、ずいぶんと楽に生きられるようになります。
 
 私は理性的・感情的に見ている世界は「半分」で、第三(理性・感情を相対的な見方とまとめてしまえば、第三ではなく、第二ということもできます)の意識で見る世界が「半分」だと考えています。ただし「半分」というのは形式上の割合のことで、実際の生活において、第三の意識が常に「半分」あるわけではありません。1日に数回、「第三の意識」を意識して、その余韻があるとしても、圧倒的に「理性的・感情的な世界」が占めています。それでも意識しようとするのは、「自分」を取り戻したいと思うからです。

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