気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

釣りは一人でするものだが、一人ではなかった

2021-09-16 07:28:16 | 渓流・鮎釣り
 行きつけの釣具屋が閉店した。飲食店に「行きつけ」を持たない私が、唯一「行きつけ」と呼べる店だった。仕事の後、いつものようにふらっと寄ってみたらシャッターが下りて、閉店を知らせる貼り紙があった。3月の渓流釣りからシーズンが始まり、6月に鮎が解禁すれば、週1で通うのが常だった。それが今年はいろいろあって「友釣り」をしなかったので、訪ねるのがしばらく空いてしまったのだ。胸がザワザワして落ち着かない。20年近く通った店が或る日突然なくなってしまったのだ。用具を買うだけなら他店に行けば済むが、私がなくしたものは、そうではないのだ。
 
 店主は2代目で、釣り吉らしくない?品のあるおじさんである。いつもボタンのシャツを着て革靴を履いている。訪ねれば1時間で帰ることは稀で、2時間以上話すことも多い。私の釣れない原因を一緒に考え、多くの引き出しから適切なアイデアを出してくれる。鮎釣りの具体的な技術から、全国の河川に釣行した昔話まで尽きることがない。帰るタイミングがなく、客が来たタイミングに乗じて逃げるように帰ったこともある(笑)。時に店が常連客でサロン化することがあり、それは釣り下手な私がいろんなことを吸収する絶好の機会になった。

 最後にキチンとした挨拶ができなかったことは残念だが、お店が閉店に向かっていく姿を見ずに済んだことは、ある意味ではよかったのかも知れない。私は店主のプライベートなことはほとんど知らず、自分のことも話さないから、私たちはただ一介の客と店主という関係だった。緊張感のある師弟関係ではなく、ただ好きな「釣り」という一点だけでつながっていた。その小さな点がなければ、私が川でひとり喜びを味わうこともなかったのである。

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桂川で3回目のサクリ

2019-09-12 16:43:23 | 渓流・鮎釣り
 今日も鮎を釣りに桂川へ。地元の人はこの引っ掛けて釣る方法をサクリと呼んでいる。水が多く、鮎の姿が観えなかったが、前回取れたポイントに沈めてみると、掛かった!竿は前回と同じ3メートルほどの渓流竿(細い方から3本は使わない)。近いポイントならば、こんな短い竿でも掛かるのである。前回オモリを色々試して、適当な重さが分かったのが今日の釣果につながったのだろう。仕掛けは市販のコロガシ用のものは使わず、行きつけの釣具屋さんに教わった特殊な結び方で自作している。

 タモ(網)の中、一番大きいのは29センチ。友釣りで釣ってみたいものだ。





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鮎釣りで満足することは滅多にない

2019-09-08 15:51:19 | 渓流・鮎釣り
 今日は台風が来る前に桂川へコロガシ釣りに。コロガシと言っても軽い仕掛け。八王子の浅川で慣らした?方法を応用してやってみる。前回7メートルの竿が扱いづらかったから、4メートル弱の竿を試してみる。しかも穂先から3本を使わない。要するに硬いものになるのだが、その方が手の動きが糸や針に直に伝わってコントロールしやすい。遠くのポイントには届かないが、近くの観える魚を取るには都合がいい。オモリはできるだけ小さいものを使い、魚に警戒されないようにした。結果、数匹釣れた。8月は友釣りで思うように釣れなかったが、今日は良かった。



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山女と岩魚に分かれる前にある無名

2019-04-05 13:34:25 | 渓流・鮎釣り
 先週、桂川(山梨)の某沢で、変わった魚が釣れた。山女と岩魚の合いの子のような風貌である。顔は岩魚で胴は山女。パーマーク(斑点)は山女だが、背中の模様は独特である(写真を見た友人は「豹・虎・シマウマ?」と表現したが、なるほどそういう風にも見える)。
 沢のように小さく区切られた空間だから、このような混血?が起きたのだろうか。アタリ(魚信)とひいた感じは岩魚のようだったが、味は山女だった。
 
 この魚は、山女と岩魚に分類したがる私に気づきを与えてくれた。万物には最初から名前がついていたわけではなく、後から名前と意味が与えられたのである。名前のあるものは、名前があるということだけで単独で存在しているのではなく、同時に名前のつく前のもの(老子の無名)が、観えない形で存在している。背後に隠れている無名の存在は、感じようとしなければ感じることはできない。



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魚と沙

2019-03-09 09:56:32 | 渓流・鮎釣り
 私は川が好きだ。たとえ竿を持っていなくても、川があるならばその横を歩きたい。しかしもしその川に魚がいないと分かったら、興味は激減する。私は海や湖での釣りはしないが、そこに魚がいるならそれだけで嬉しくなる。そこで魚を釣る可能性が、将来に全く無いわけではないからである。しかしたとえ魚がいても、それが公園の池や水槽の中では、釣人としての本能は喚起しない。
 
 昔、タクラマカン沙漠に「楼蘭」という王国があったことは、井上靖の小説で知った。ずいぶん前に敦煌・ウルムチ・トルファン・カシュガルには行ったが、楼蘭には行くすべがなかった。もし今、そこへ行けるチャンスがあるならば、喜んで行くだろう。人の居ない沙漠に行きたいと思うのは何故だろう。それは眼前の魚を取る「釣人」としての私ではなく、もう一人の私が、残された沙の中に過去の幻影が観られると思っているからである。

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