「百子全書(諸子百家の書)」をパラパラとめくっていたら、気になる箇所があった。道家(思想)の文だろうか。自己流で訳してみた。
「形者生之器也。心者形之生也。神者心之寳也。故神静而心和。心和而形全。神躁則心蕩。心蕩則形?。将全具形先在理神。故恰和?神。則自安於内。清虚棲心。則不誘於外。神恰心清。則形无累矣。虚室生白吉祥至矣。」
「形者生之器也」・・・「形は生の器なり」。動物も植物も必ず形を有するが、その中にはキチント生が入っているのである。形をからだ、生をいのち(魂)と訳せば、より分かりやすくなる。「からだは、いのちの入れ物である」。
「心者形之生也」・・・「心は形(からだ)を生かすなり」。からだを生かすも殺すも心次第である。
「神者心之寳也」・・・「神は心の宝なり」。一般に神は万物を生かすものだと言われている。しかしここで、「心もまた神によって生かされる」と訳したら、この話は、私たちの日常に降ろすことができず、そこで止まってしまう。試みに「神」を「意識」としてみたい。心をコントロールできるのは意識だからだ。
「故神静而心和 心和而形全 神躁則心蕩 心蕩則形?」・・・「故に神(意識)が静まれば心がなごみ、心がなごめば、からだは全になる。神(意識)が落ち着かなければ心が余分に動き、心が余分に動けばからだが傷つく」。
ここでの神は全知全能・絶対の神ではなく、意識と同様に変化するものである。
「将全具形先在理神」・・・「完全なからだになるためには、先に神(意識)の理を究めなければならない(意識の使い方を知ること)」。上述の「からだは全になる」「完全なからだ」とは、病気にならないからだを言っているのではなく、からだの機能を全うすること。
「故恰和?神 則自安於内」・・・「故に穏やかに神(意識)を養えば、自ずから自分らしくいられる」。
「清虚棲心 則不誘於外」・・・「心を清らかにしてやすめれば、自分らしさを失うことはない」。
「神恰心清 則形无累矣」・・・「神(意識)を穏やかにし、心を清くすれば、からだは疲れることはない(変な疲労感はない)」。
「虚室生白 吉祥至矣」・・・「無念無想であれば、自然と真理に到達し、それで良い」。「無念無想」にはなれなくても、できるだけ意識を偏らせない(何かに固執しない)ことだ。