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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

整体とは勢いを正すこと

2014-11-30 21:05:15 | 野口整体

 野口晴哉氏の著書「風声明語」をパッと開いたら、このページが出た。

「整体とは姿勢を正すことだと言った人がいた。

 外から見ればそう見えるかもしれないが、外から正された姿勢は、どんな形をしていても整体ではない。

 姿勢の姿は形のことである。

 勢いは、その形のもとである。

 勢いの現れとして形がある。

 整体というのは、形を正すことではなく、勢いを正すことである。

 勢いによらない形は生物の形ではない。」


 整体とは、形を正すことだと勘違いしている人がいた(今でもいる)から、このような言葉を残したのだろう。

 野口氏ははっきりと言っている。まず、勢いを正しなさいと。その結果として、現れるのが姿(形)なのだと。

 勢いが、何(姿・形)よりも大事なのである。「勢い」とは何だ。それは、生きている力(生命力)である。誰でもそういう力があるから生きているのだが、その力を十全に発揮することが大事なのだ。整体指導とは、その力をその人の裡から導き出すことであって、曲がった骨を真っ直ぐにすることではないのである。


太極拳の型をいじる

2014-11-22 16:40:14 | 太極拳

 先週見学に来た人から、いつもやっている太極拳と速度が違うと言われた。競技太極拳でなければ、決められた速度はないから、自分のやりやすい速度でやればいい。教室で型をするときには、私と同じ速度でなくても構わないからと言っている。歩いたり、話す速さは、人によって違うのだから、太極拳も違って然りである。足の幅やつま先の開く角度、腕の高さなども、骨格やその他の身体状況に合わせて、変えたらいい。競技用のように細かい規定をしていたら、のびのびとすることができなくなる。

 太極拳が健康法であるならば、もっと自由でいい。型を自由に変える遊び心があってもいい(それを太極拳とは呼べないかも知れないが)。重心の位置を、前後左右を変えてやるのもいいし、腕を付けずにやるのも、胴体をきちんと使う練習になる。

 太極拳には「からだに良い」というイメージがあり、実際にも大腿四頭筋や前脛骨筋を鍛えることができるらしい。私は太極拳だけでなく動功(動作のある気功)も教えているが、気持ち良さ(リラックス感)を比較すれば、動功が良いという人の方が多い。気功は動作があっても簡単なので、緊張することなくリラックスしてできるからだろう。それは結果的に大脳を休ませることになる。私は、健康面だけを見れば気功に分があると思っている。

 太極拳を学ばれる方は、まず自分が何を求めているのかをはっきりとさせなければならない。武術(実践)的太極拳なのか、競技太極拳なのか、健康太極拳なのか。指導者も、健康をその目的としているのであれば、健康の根拠は何処にあるのかを教えなければならないだろう。

 太極拳の優位性は知名度と、動作の美しさにある。そこに魅力を感じているならば習えば良いし、もし特に太極拳にこだわりがなく、目的が健康のためということであれば、何も難しい型を何年もかかって覚えるよりも、その日からできる気功や野口整体の方が、良いのではないかと思うのである。

 


「弛める」と「曲げる」

2014-11-14 10:13:54 | 「立つ」健康法

 教室で、「股関節を弛めてください」と言うと、股関節を曲げる人が多い。同様に「膝を弛めてください」と言うと、膝を曲げてしまう。「弛める」イコール「曲げる」ことだと考えているのだろう。弛めた結果として、わずかに曲がるのは良いが、初めから曲げてしまうと、弛まないのだ。

 太極拳や気功でからだを弛めるのは、その方が全身をつなげて動くことができるからだ。最小限の力で、最大限の力を発揮するのである。筋トレのようにパーツだけを鍛えて、バラバラに使っているのとは正反対である。

 学校の体育では、屈伸をするときに「膝を曲げて」と言うが、その前に力を抜いて弛めることを教えるべきである。そうすればより自然な曲げ方ができる。表面に見える形のみを重視して、からだを動かしていくことは、十分に機能を発揮できないばかりか、怪我をすることにもなる。

 からだの内側、筋肉の緊張と弛緩のバランスを整えることが、すべての姿勢・動作の基本であり、前提になる。


声は死なない

2014-11-09 15:16:21 | 

 亡くなった人の映像(ビデオ)を見ても、その人が生きているとは思わないが、声だけを聞くと、その生々しさに何処かで生きているのではないかと錯覚してしまうことがある。

 人は死ねば、顔も手も足もその温もりを失い、形が変わるものだが、声はほとんど生前と変わらずに残る。

 声を聞いて親しく感じるのは、言語やその内容によるものではなく、声の中にその人らしさを感じたときである。感情だけでなくからだの様子(緊張・弛緩のバランスや重心の位置)なども声に反映する。そういう身心のその人らしさが、個性として声の上に現れるから、すべてのひとの声は違うのである。

 CDをはじめ、私たちがテレビなどから聴く音は、加工されたものが多い。しかし原音から離れれば離れるほど、声の主や演奏者の個性が無くなっていく。

 声はレコードや楽器の音と同様に共鳴したり、からだに響くものだ。録音されたものであっても、それが空中を伝わり届く。届けられるのは「音」化された声だけなのだろうか。それ以外にも何かが伝わることはないのだろうか。私たちは無音の中にも気配を感じることがあるのだから、そういうものが一緒に伝わってほしいと思うのだ。

 臨終の時に、「耳」は最後まで残る(聴こえる)と言われているが、それは耳が言葉を認識する機能だけを持っているのではないからだと思っている。

 

 


神を意識とする

2014-11-02 10:38:08 | 

「百子全書(諸子百家の書)」をパラパラとめくっていたら、気になる箇所があった。道家(思想)の文だろうか。自己流で訳してみた。

「形者生之器也。心者形之生也。神者心之寳也。故神静而心和。心和而形全。神躁則心蕩。心蕩則形?。将全具形先在理神。故恰和?神。則自安於内。清虚棲心。則不誘於外。神恰心清。則形无累矣。虚室生白吉祥至矣。」

 「形者生之器也」・・・「形は生の器なり」。動物も植物も必ず形を有するが、その中にはキチント生が入っているのである。形をからだ、生をいのち(魂)と訳せば、より分かりやすくなる。「からだは、いのちの入れ物である」。

 「心者形之生也」・・・「心は形(からだ)を生かすなり」。からだを生かすも殺すも心次第である。

 「神者心之寳也」・・・「神は心の宝なり」。一般に神は万物を生かすものだと言われている。しかしここで、「心もまた神によって生かされる」と訳したら、この話は、私たちの日常に降ろすことができず、そこで止まってしまう。試みに「神」を「意識」としてみたい。心をコントロールできるのは意識だからだ。

 「故神静而心和 心和而形全 神躁則心蕩 心蕩則形?」・・・「故に神(意識)が静まれば心がなごみ、心がなごめば、からだは全になる。神(意識)が落ち着かなければ心が余分に動き、心が余分に動けばからだが傷つく」。

 ここでの神は全知全能・絶対の神ではなく、意識と同様に変化するものである。

 「将全具形先在理神」・・・「完全なからだになるためには、先に神(意識)の理を究めなければならない(意識の使い方を知ること)」。上述の「からだは全になる」「完全なからだ」とは、病気にならないからだを言っているのではなく、からだの機能を全うすること。

 「故恰和?神 則自安於内」・・・「故に穏やかに神(意識)を養えば、自ずから自分らしくいられる」。

 「清虚棲心 則不誘於外」・・・「心を清らかにしてやすめれば、自分らしさを失うことはない」。

 「神恰心清 則形无累矣」・・・「神(意識)を穏やかにし、心を清くすれば、からだは疲れることはない(変な疲労感はない)」。

 「虚室生白 吉祥至矣」・・・「無念無想であれば、自然と真理に到達し、それで良い」。「無念無想」にはなれなくても、できるだけ意識を偏らせない(何かに固執しない)ことだ。