私たちは普段、モノをそれぞれ違うものとして分けて見ています。机は机、椅子は椅子、窓は窓という具合に。机はどこまでいっても机であって椅子や窓になることはありません。モノにはそれぞれ「違い」があり、その違いは意味(概念)を根拠にしています。このような常識的な見方は、社会生活を行う上で必要なことであり、否定されることではありません。しかしそれは、ただ一つの見方に過ぎません(大多数の人はこの見方だけしか知らず、人生を送りますが)。
それに対して、モノを無差別・平等に見るという方法があります。もともとモノに対して意味(名前)を与えたのは人ですから、再びその意味(名前)を「剥奪する(取ってしまう)」こともできるわけです。意味を剥奪しても形は残りますが、それだけは「在る」ことにはなりません。常識的な見方では、見えたり、触れたりできるものは「在る」ことになりますが、「無差別・平等」の基準では、それは必ずしも在ることになりません。
「無差別・平等に見る」ということは、「モノを一つに見る」ということです。自分も含めた周りのモノモノが一つにつながるということです。もちろんこのような見方は簡単ではありません。しかし、完全にはできなくても、それを目指していくことで、身心が変わるのです。
それに対して、モノを無差別・平等に見るという方法があります。もともとモノに対して意味(名前)を与えたのは人ですから、再びその意味(名前)を「剥奪する(取ってしまう)」こともできるわけです。意味を剥奪しても形は残りますが、それだけは「在る」ことにはなりません。常識的な見方では、見えたり、触れたりできるものは「在る」ことになりますが、「無差別・平等」の基準では、それは必ずしも在ることになりません。
「無差別・平等に見る」ということは、「モノを一つに見る」ということです。自分も含めた周りのモノモノが一つにつながるということです。もちろんこのような見方は簡単ではありません。しかし、完全にはできなくても、それを目指していくことで、身心が変わるのです。