気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

バッハの気

2016-05-27 19:27:14 | 音楽
 バッハ(J.S.Bach)の平均律クラヴィーア曲集第1巻から、好みの曲を抜粋して聴く。先ずは嬰ハ短調 (BWV849)の前奏曲とフーガ。続いて嬰ニ短調 (BWV853)の前奏曲とフーガ。そしてホ短調(BWV 855)から 前奏曲。ヘ短調 (BWV 857 )前奏曲とフーガ 。最後は嬰ヘ短調(BWV 859 )からフーガ 。
 バッハの作ったこれらの曲を聴くと気が下がる(落ち着く)。バッハ本人が落ち着いた人だったのか、或はバッハ自身が曲を作ることで落ち着いていったのか。私小説を書く人は、自身のどうしようもない思いを「書く」ことで、落ち着かせたということからしてみれば、バッハが音楽にそれを求めてもおかしくはない。
 音楽には「心地よさ」があればいいと言う人もいるだろう。しかしキチンとした心地よさを得るためには、落ち着いた身心の状態が無ければならない。バッハはそれを知る人だった。

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白石(しらいし)が白石(しろいし)川へ

2016-05-20 14:18:29 | 
 宮城県に住む友人から誘いを受け、明日から二日間、遊びに行くことになった。小学5年生の時に同じクラスになり、一緒に野球をした。その後彼は引越し、つい最近の同窓会まで会うことはなかった。30年以上も連絡していなかったのに、わずか1、2回の同窓会で家に呼んでくれるまでになるなんて、人の縁というのは面白いものだ。
 
 彼は朝飯を釣りに、30分で2匹岩魚を釣ってくる男である。その男が地元の「白石(しろいし)川」に連れて行ってくれるという。狙うのは桂川の尺山女魚よりも大きいあの魚である。下手な私だから、釣れないことは覚悟している。それに挑戦できることが幸せだ。

 「有朋自遠方來 不亦樂乎」は遠方から朋が来る話だが、朋を訪ねるのも「また楽しからずや」である。

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「自分らしく」立つ

2016-05-15 07:36:11 | 「立つ」健康法
 もし、何等かの事情で写真を一枚だけ残して、すべて捨てなければならないとしたら、どんな一枚を残すだろうか。おそらく一番思い出のある写真だろう。ではもし思い出と関係なく、人に見せるものではないとしたら、選ぶものは変わってくるはずだ。それは「自分らしい」ものではなかろうか。「自然体」と言ってもいい。人は自分で「自分らしい」かどうかが分かる。自分らしい姿勢、顔…。録音した声が嫌なのは、声の色が違うことではなく、自分らしい声ではないからだ。声は身体の状態に左右される。身体の何処かに強張りがあると、声に影響する。強張りは、身体の使い方に拠るものと、意識の持ち方に拠るものがある。この二つは関連しているから、同時に対処していかないとならない。身体から肉体だけを取り出して、整えたり、鍛えたりすることはおかしい。太極拳をするときに、動作だけを意識したり、追求していくこともおかしい。だから私は「ただ立つ」練習をしている。

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自分らしい「からだ」

2016-05-08 08:26:52 | 「立つ」健康法
 酔って何か失敗をしたときに、人はよく「酔っていたから」と弁解する。酔っている自分は本当の自分ではないから勘弁して(大目にみて)くれという意味だ。酔って返って自分らしくなる人もいるから、必ずしも酒のせいにはできない。酔ってはいなくても、自分らしい時とそうでない時がある。不安や緊張で気が上がっている時は、自分らしい状態とは言えない。酔っている時よりも、気の上がっている方が本当の自分ではないのだ。職場や公の場所などの環境に影響を受けるのは、ある程度は仕方がないが、出来るだけ自分らしくいたいものだ。自分らしいかどうかは、筋肉の緊張と弛緩のバランスをみればわかる。からだの特定の箇所に緊張が無く、リラックスしていても、だらけていない状態である。日に何度も「立つ」練習をするのは、自分らしくいるためだ。

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