カラダは相手の「分別・無分別」の思いに対して感応します。分別があまりに強いと、「イヤ」だと拒否することもあります。例えば手をあてる人の、勝手に自分のカラダを治そうとする「手」に対して抵抗します。カラダはアタマよりも早く、それをイヤがります。
無分別の振る舞いには、カラダは好く感応します。それはカラダがもともと無分別だからです。
カラダは相手の「分別・無分別」の思いに対して感応します。分別があまりに強いと、「イヤ」だと拒否することもあります。例えば手をあてる人の、勝手に自分のカラダを治そうとする「手」に対して抵抗します。カラダはアタマよりも早く、それをイヤがります。
無分別の振る舞いには、カラダは好く感応します。それはカラダがもともと無分別だからです。
『気』というのは、忘れていてもハタライテいます。また信じていなくてもハタライテくれます。「死にたい」と思っていても生かされてしまうのが、気のハタラキです。アタマの中の思いとは関係なく、気は自身のハタラキをまっとうしようとします。
信じていなくてもハタライテいるものですが、どうせなら「気のハタラキ」に少しでも協力したいと思い、それを形にするのが 『気気』です。
私たちは日常、気に対して悪いことばかりしています。アタマばかり使って気を上げて生活しているのは、気の方から見ればそうなります。とは言っても気が怒る訳でもなく、気は人間の思惑に関係なく、ただそのハタラキを淡々としているだけです。また気に協力したからといって、「気が喜ぶ」わけでもありません。それでも、時には、『気』にチューニングを合わせたいのです。それが気気です。
部屋の中に花や木などの緑があると、ホッとします。物や電気製品しかない部屋は落ち着かないこともあります。街も同じようにビルディングばかり立っている街は、息苦しくなります。公園や街路樹があるとホッとします。緑が無くても生きていかれないことはないのでしょうが、何だかバランスの悪さを感じます。
先にも書きましたが、日常生活は「分別(目玉焼きの黄身)」の世界です。「分別」だけでは、少し息苦しいのです。気気という「無分別」を取り入れるとホッとして、バランスが取り戻せます。
気を下げるということは、ゼロに戻ることです。しかしゼロといってもまったく何も無いわけではありません。そのゼロは種(タネ)のようなもので、中には沢山『動き』が詰まっています。
時期でもないのにタネに向って「早く芽を出せ」と言ってみてもダメです。肥料をあげても効果はありません。
気を下げて自分らしくなったとき、自分の中にある意欲に気がつきます。その時が「動く時」です。
昨日のブログの中に、気気は「目的の無いことを目指す」と書きましたが、少し説明を加えます。「目的が無い」というのは、気気の三つの要点(ただ手をあてる・ただ手をうける・結果は気にしない)のことです。三つの要点は一つの「方向」です。東や西のような方向です。東にどこまで行っても東という場所にたどり着くことはありませんが、気気も同じです。できなくてもそういう「方向」を目指していることが大事です。
実際には誰でも、何らかの目的や期待をもって会に参加されるのだと思います。それは自然なことです。しかし会としてはその目的や期待を実現することを目指していません。また、目的や期待を無くすことを目指しているのでもありません。目的や期待を抱えながら、ただ手をあてることを目指します。