気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

禅の本は身体で読む

2014-05-31 09:57:19 | 「立つ」健康法
 一昨日(5月29日)の午後、用あってGちゃんのところに寄ると、食事に出ていたので、会議室で待たせてもらう。事務の方が彼の携帯に電話を入れると、事務所内から呼び出し音が・・・。
 ほどなくして帰って来た彼は、ポケットから一冊のヨレた本を取り出した(携帯は置いていっても大事なものは忘れないのだ)。鈴木大拙の「禅と日本文化」。偶然にもその前日に私も禅の本(井筒俊彦・禅仏教の哲学に向けて)を注文していた。どちらの本も、先に英語で書かれたものが日本語訳されたものである。


20140531


 「禅」は読むものではなく、実践するものである。身体(全身)を持ってそれと対峙しなければ、血肉とすることはできないからだ。坐禅や公案もその手段である。私が朝に「立つ(練習をする)」のも、それに近い。井筒の本は、サラサラとは読むことができない。字面だけを追っても腹には入らない。先にからだを整え、言葉の表層の意だけを追わずに、もっと深い処にある共通の「いのち」のようなものも感じながら、読むのがいい。自分の身体レベルが上がれば、その分だけ理解は深まるだろう。私たちは井筒の残した言葉に触れることができるが、井筒の本当に伝えたい処を感得するには、身体レベルの向上は不可欠である。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュートラルから始まる

2014-05-24 09:50:51 | 「立つ」健康法
 朝起きると、「立つ練習」をする。練習というよりも、そうしたいから「立って」いる。
 全身の力を極力抜いて、気功的なイメージなども使い、最小限の力で立つ。そうすると、雑念は少なくなり、身心が落ち着く。おそらくこの状態が「ニュートラル(身心の理想的な状態)」に近いのだろう。朝起きたては観念が少ない。しなければいけないことは無く、人間関係の煩わしさも無い。イメージを使うのも観念(先入観)をできるだけ消して、ニュートラルな状態に戻るためである。
 立っていると、時々思わぬ「ひらめき」がある。普段考えていることが、まとまった形で出てくることがある。これなどはニュートラルになったからこそ現れたに違いない。しかし立つときにそれを期待していれば、ニュートラルになれないことは言うまでもない。「ひらめき(答え)」を追い続けることなく、再びニュートラルを目指す。それの繰り返しである。
 
 この「ニュートラル(身心の理想的な状態)」を、太極拳に応用できるだろうか。相当に難しいだろう。観念を減らすのだから、動作は完全に憶えていなければならない。動作に不安があれば、余計に考えて緊張してしまう。人前でするときにも、上手くやろうともせず平常心を保たなければならない。力を抜こうとすることさえ余分なことなのである。結局、根本の処で、どう思って(考えて)いるのかが、身体に現れているのだから、そこから変えて行かなければ、動作も変わらない。「根本」は本人の生まれながらにして持った質や、理念のようなものだから、「変わらない」、或いは「変えられない」ものもあるだろう。姿勢や動作には本人のそういう癖が現れる。自分の根本にある癖を知り、付き合っていくことだ。癖は「自分らしさ」でもあるのだから、無くす必要ななく、バランス良くあればいい。過ぎた癖を戻すために「ニュートラル(身心の理想的な状態)」を目指す。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌は処方箋

2014-05-18 19:22:18 | 音楽
 ビートルズの歌集(ギターのコードブック)が数日前から見当たらない。何処へ行ってしまったのだ。まさか私のことが嫌になって家を出たわけではあるまい(たとえそういう場合でも、黙って行くことはないだろう)。
 歌いたい歌を唄えないというのは、ツライことだ。とんかつを食べたい時に、天ぷらや刺身で我慢することができないようなものだ・・・試しに井上陽水や長渕剛を唄ってみるが、やはりとんかつが食べたいのだ(もちろん、時には長渕や陽水を唄いたいこともある)。
 悩みがある時にバイブルを開く人も多いようだが、私は悩みがなくても歌集を開いてきた。特定の歌を唄うのではなく、ビートルズの全曲が入っているその本をぱらぱらとめくり、その時に唄いたい歌を選ぶ。日によって唄いたい歌は変わるのは自然なことである。気分に応じて選ばれた歌を唄って行くと、調子が出てくるのを感じる。身心が整うのだろう。歌は処方箋である。私は薬は飲まないが、代りに歌を唄っている。だから唄えないと少し落ち着かなくなるのである。早く出てきておくれ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマメも頭が痛い

2014-05-10 09:54:45 | 渓流・鮎釣り
 一昨日(5月8日)、桂川(都留漁協)の支流に、バスで行った。バス停から直ぐにその沢はあり、時々深みがあり、釣りやすそうな感じである。

20140508_2


 
 
 全くアタリもないまま沢を上がっていく。途中でクロカワムシが採れたので、餌をミミズから替えてみるが一向に魚信はない。更に進むと、林道の終点に車が停めてあり、「今日の釣りは終わった(沢で先行者の後で釣るのは難しい)」。トボトボとバス停に向かって歩いていると、大きな車に乗ったおじさんが声を掛けてきた。「釣れた?」「いえ、全く」。おじさんは別の沢に連れて行ってあげると言い、車に乗せてくれたのだ。話を聞くとおじさんは「鉄砲撃ち(狩猟)」をしているので、この辺の地理に詳しく、そこに案内してくれるというのだ。おじさんの親切によって訪れた沢。
 
201405081_2




 縁があっても運がある(釣れる)とは限らないのが釣りの無情なのか、それでも心温まる釣行だった。
 実は当日(翌日も)、朝から頭が痛くて、行くかどうか迷うほどであった。体調が悪かったのか、或いは天候(気圧等)が原因なのか(翌日関東は不安定な天候になった)。勝手な憶測だが、人の頭が痛いのなら、ヤマメやイワナにも頭痛とは言わないまでも何らかの影響があるのではないだろうか。そうであれば、私がビールを飲まなかったように、彼らが餌を喰わなくても不思議なことではないのである。
 






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

調子の出ないときは、本か双葉か

2014-05-03 10:29:30 | 
 毎年ゴールデンウイークの時期は、調子があまり出ない。釣りの記録を調べてみると、去年も一昨年も釣りに行っていない。3月に渓流釣りが解禁してから毎週川に通っているから、丁度休みを一度入れたほうがいい時期なのかも知れない。
 図書館で借りた本が3冊あるので、それでも読みながら過ごそうかと思っている。気分がのれば八王子の放射線通りで開催中の「古本まつり」を覗きに行くかもしれない。

 日々の喜びの一つが、去年蒔いた檸檬(宮崎・日南産と広島・瀬戸内海の島産)の成長を見守ること。水や肥料はもちろん、アゲハ蝶や、寒さからも守らなくてはならない。



20140503

 最近、「ルレクチェ(洋梨)」も発芽した。去年頂いたものの種を取って置き、ダメ元で蒔いたら出てきた。




20140503_3





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする