一昨日(5月29日)の午後、用あってGちゃんのところに寄ると、食事に出ていたので、会議室で待たせてもらう。事務の方が彼の携帯に電話を入れると、事務所内から呼び出し音が・・・。
ほどなくして帰って来た彼は、ポケットから一冊のヨレた本を取り出した(携帯は置いていっても大事なものは忘れないのだ)。鈴木大拙の「禅と日本文化」。偶然にもその前日に私も禅の本(井筒俊彦・禅仏教の哲学に向けて)を注文していた。どちらの本も、先に英語で書かれたものが日本語訳されたものである。
「禅」は読むものではなく、実践するものである。身体(全身)を持ってそれと対峙しなければ、血肉とすることはできないからだ。坐禅や公案もその手段である。私が朝に「立つ(練習をする)」のも、それに近い。井筒の本は、サラサラとは読むことができない。字面だけを追っても腹には入らない。先にからだを整え、言葉の表層の意だけを追わずに、もっと深い処にある共通の「いのち」のようなものも感じながら、読むのがいい。自分の身体レベルが上がれば、その分だけ理解は深まるだろう。私たちは井筒の残した言葉に触れることができるが、井筒の本当に伝えたい処を感得するには、身体レベルの向上は不可欠である。
ほどなくして帰って来た彼は、ポケットから一冊のヨレた本を取り出した(携帯は置いていっても大事なものは忘れないのだ)。鈴木大拙の「禅と日本文化」。偶然にもその前日に私も禅の本(井筒俊彦・禅仏教の哲学に向けて)を注文していた。どちらの本も、先に英語で書かれたものが日本語訳されたものである。
「禅」は読むものではなく、実践するものである。身体(全身)を持ってそれと対峙しなければ、血肉とすることはできないからだ。坐禅や公案もその手段である。私が朝に「立つ(練習をする)」のも、それに近い。井筒の本は、サラサラとは読むことができない。字面だけを追っても腹には入らない。先にからだを整え、言葉の表層の意だけを追わずに、もっと深い処にある共通の「いのち」のようなものも感じながら、読むのがいい。自分の身体レベルが上がれば、その分だけ理解は深まるだろう。私たちは井筒の残した言葉に触れることができるが、井筒の本当に伝えたい処を感得するには、身体レベルの向上は不可欠である。