気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

きれいなお金の使い方

2014-07-26 08:56:51 | 

 暑い夏が来ると、思い出すことがある。

 20代前半のある日、背中にギターを背負って、自転車で多摩川へ行った。土手の下に拡がる広場で歌を唄うために。

 しばらくすると、広場の外れに車が数台止まり、ぞろぞろと男臭い連中(建築現場で働いている人たち)が歩いて来た。こんなに大きな広場で、私のいる処に向かってくるのは、ここにだけ木があり、木陰があったからだ。

 「兄ちゃん、ここに坐ってもいいかな?」と言われ、「どうぞ」と答える。彼らはすぐ近くにシートを広げ、持参したつまみを食べながら酒を飲み始めた。なかなか良さそうな人たちだなと思い、歌を続ける。

 しばらくして、彼らに呼ばれ、「歌を唄ってくれないか」と言われた。咄嗟に、「私がギターを弾きますから、皆さんが好きな歌を選んでください」と言って歌集を渡した。あとは皆が思い思いの歌を唄い、私はその伴奏をした。焼酎の入ったコップを頂き、一緒に楽しんだ。一番貫禄のあるボスが「なごり雪を弾いてくれ」と言ったのはおかしかった。

 帰り際、「皆からのお礼だ」と言って、1万円札を渡された。私が返そうとすると、「取っておけばいいんだよ!」と。それからボスが「これは俺からだ」と言って、さらに1万円を胸のポケットに差し込んだ。

 私は彼らの後姿を見送りながら、きれいなお金の使い方があることを知った。彼らにとって私は、二度と会うことのない人間であり、「利害損得」の基準で見れば、何もすることはないのである。

 普段彼らが、炎天下で流している汗を、頂いた。


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名曲を勝手に解釈する⑭

2014-07-19 09:35:26 | 音楽

 谷村新司の「残照」を聴いていたのは、二十歳前後だっただろうか。

「久しぶりに散歩する 父と二人の遠まわり」

 最近まで、この親子の間には生き方をめぐる確執があった。

「はるか昔に この人の背中で聞いた 祭りばやし」

 父に背負われていたことを思い出した。

「“人生は祭りのよう” 何気なく貴方は言った」

 人生は苦しく、働くばかりで、一時の楽しみしかない。それでさえ過ぎてしまえば、まぼろしの如くである。

「その後の 淋しさにたえる 勇気ができました」

「その後」とは父のなくなった後のこと。

「残り少ない 祭りの夜は」

 父の人生が長くないことを暗示している。

「哀しくて 哀しくて 体全部が哀しくて 目頭が熱くなり思わず貴方を追いこした」

 互いを理解できずに過ごして来た時間が、あまりにも長かったことが、哀しかった。

「見えていますか これが貴方の 見えていますか これが貴方の 夢を削った 夢をこわした背中です 震えているのは きっと きっと きっと・・・」

 父は息子に夢を預けたが、それは叶わなかった。父の夢と息子の夢は違っていた。今にして思えば、父の進めた道を進んだ方が良かったのではという思いが少しはある。いまだに自分の人生に対する自信なども持てずにいる。

 父の夢をこわした息子が初めて、父親に見せた背中は、遠い昔に祭りばやしを聞いた時の、父の背中と同じ背中だった。    

 そこには「夢」など何処にもなく、ただ男の背中が二つあった。


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名曲を勝手に解釈する⑬

2014-07-11 20:34:49 | 音楽

 ジャニス・ジョップリンの「ミー・アンド・ボビー・マギー」は、歌詞を読めば、情景が目に浮かんでくる。列車でニューオリンズに向かう旅の途中、

「アタシは汚れた赤いバンダナに包んだハーモニカを取り出し ボビーの歌うブルースに合わせて そっと奏いたわ」

「自由ってことは 失う物が何もないってことね 自由でなけれゃ なんにも なんにも意味はないわ」

 「物」は物質的なものだけではなく、すべてに固執していないということ。しかしこの時点では、「彼」も失う対象であるということを自覚してはいない。

「彼がブルースを歌えば いい気分になるのは簡単だった いい気分になるだけで アタシにはもう何も言うことはなかったわ」

 自由は長くは続かない。自由を歌うことは、他者の自由を認めることでもある(たとえ自分にとっては悲しくても)。

「ある日サリーナ近くで 彼と別れたの 彼は生まれ故郷を探していたのよ うまく見つかったのならいいけれど・・・」

 「生まれ故郷」は、「自分が本当にやりたいこと」。彼女はそれ(彼の自由)を喜ぶ自分でいたかった。

「でもアタシは思い出の内のたった一日のために 未来のすべてを売り払ってもいいわ ボビーの体に ぴったり寄り添うためになら・・・」

 こんな台詞、なかなか吐けたものではない。よくある「死ぬほど愛している」という言葉よりも、こちらの方が本気度が高い。一緒に暮らしてくれなどと懇願しているのではなく、「たった一日」で良いと言っているのだ。「彼の自由(故郷)」を邪魔するつもりはなく、ただ「その一日」を、彼女にとっての永遠にするために・・・。

 過去に囚われているなどと軽々しく言ってはならない。彼女は、彼(過去)と誰か(未来)を比べるような時間軸では生きてはいない。彼女の中には今でも彼がいるのだから、過去ではなく現在なのである。

 彼女のことを「後ろ向き」だと咎めることのできる人がいるとすれば、年老いて尚、次なる恋を最上だと思える感覚のある人だろう。

20140711

昔、弾き語りで使ったジャニスの歌集。


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自然体に戻るために

2014-07-05 09:29:12 | 気気

 気気の会では、うつぶせになった人の背中に手を当てる。その姿勢は、手を当てる人から受ける人に気を送っているように見えるが、「気」という視点から見ていくと必ずしもそれだけではない。ここでいう「気」は、物質的なものというよりも、すべての人(物)を生かしているハタラキである。

 「気」はすべての人に共通してあり、動けば一方通行ではないから、手を当てる人だけではなく、うつぶせになっている人も「気」を出しているのである。どちらの人も気を出し、同時に受けている。

 自分と相手が同質である「気」を介してつながれば、当てている掌が肉体の末端ではなくて、相手のカラダも自分のカラダの延長として感じる。このような一体感は、自分と相手だけではなく、さらに拡げていくことができる。たとえば、(気功や瞑想法などを使い)部屋の空気や屋外の木々とも同質であるとイメージできれば、体感もまた大きく拡がる。

 人は意識するしないにかかわらず、思い込みや錯覚をしている。そうして偏った意識をもっているのだから、自然体(ニュートラル)ではない。それを修正する(ニュートラルに戻す)ために、上記のような「気」の視点を持つ、或は多少のイメージを使う。気気とは、本来持っているはずの身心の状態に戻るための一つである。


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