気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

詩が渓に流れるとき

2016-09-29 16:35:34 | 渓流・鮎釣り
 禁漁間近に桂川(山梨)の沢に釣行。

 駅から沢に向かって歩いていると、軽トラに追い抜かれた。生活道路ではないので、私と同じ沢に行くのだろう。早い者勝ちだから仕方がない。暫らくして、どういうわけか軽トラが引き返して来た。先行者がいたのかも知れない。その男性と軽く会釈をし、私はどうするべきか考えた。もし目指す沢に先行者がいるなら、そこでの釣りは断念せざるを得ない。或はここから反対側の沢に行くという選択肢もある…
 結局、予定通り行ってみて、先行者がいた場合には別の沢(相当遠い)に行こうと決めた。沢に着くと驚いたことに、先行者はいない?! もしかすると車の男性が私に、その沢を譲ってくれたのかも知れない。そう考えると気持ちは爽やかになる。

 さて、この沢は今年初だ。いきなり竿を出しても釣れないので、作業道と沢を30分以上歩いてから入渓。小さなアタリがあるが針掛かりせず、1時間を越えてから1匹出て、2時間を越えると釣れ出した(これは多くの人がここまで来ないで引き返していることを意味している)。岩魚が数匹釣れて、いつもならもう暫く釣り上がるのだが、なぜか釣りの意欲が落ちたので、納竿した。
 なぜ私は前に進まなかったのだろう?稀少な魚を守るために釣り過ぎないということも無いわけではないが、もっと別の理由がありそうだ。
 先日読んだ「まどみちお」の詩がアタマに浮かんだ。

 「さかな」と題する詩(抜粋)。

 にんげんが みんな
 さかなを たべているのを
 さかなは しらない

 詩はどんな道徳や倫理よりも自然にココロに入ってきて、自然にココロを変えてしまう、そんな力がある。



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ヒマではない

2016-09-23 08:41:14 | 「立つ」健康法
 何もしていないと「ヒマ」だと感じることがある。それは外に刺激を求めているときである。脳がそういうモードになっていると言っても良い。反対に自分の内に眼を向けて、感じているとき、脳は別のモードになる。そのときには、何もしていないように見えても、ヒマではない。ヒマでないどころか気持が良い。私は「ただ立つ」練習をしているが、上手く立てたときには本当に気持が良い。
 野口整体の創始者である野口晴哉氏は語録の中で、その気持ち良さを「楽」として、次のように言っている(野口晴哉著作全集1・抜粋)。
 
 楽とは生である
 楽は自然に来るものなり
 楽は裡より生じ 外より来らぬ
 
 楽(気持ち良さ)は求めるものではなく、自分の中から自然に湧いて来るものだと言っている。もちろんそれには条件がある。ミゾオチをはじめ、からだの余分な力を抜かなければならない。一番難しいのがアタマの力を抜くことである。

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太極拳を上手くなりたければ

2016-09-16 16:27:40 | 太極拳
 20年間、健康法としての太極拳を指導している私が、太極拳を上手くできない理由を一つだけ挙げるとすれば、それは「意識(何をどう考えているのか)」である。偏った意識は筋肉の緊張として常にからだに反映しているから、そのまま太極拳にも現れる。
 多くの人は腕や足の位置など太極拳の動作を考えている。形が太極拳だと思い込んでいるからだ。それは偏りになる。私は形の中の方が大事だと思っている。筋肉の緊張と弛緩のバランスである。それを実現するために、偏らない意識を持つ。それを「立つ」練習で身に付ける。そうしてバランスを整えてから太極拳をすると、良い質で動ける。
 動作を憶えるまでは仕方がないが、後は質的に向上することを目指した方が良い。しかしながら昔から巷の太極拳教室では一つの型を憶えたら次の型…ということが多いようだ。型を多く覚えてもからだの質的向上にはならない。
 どういう意識を持ったらいいのか、それはまたいずれの機会に。

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整体の快感

2016-09-11 15:23:24 | 野口整体
 整体になった感じはあまりに心地よくて、温泉も必要ないくらいだということを野口晴哉氏が言ったという話を聞いたことがある。実際の言葉やニュアンスは違うかも知れないが、やはりこのようなことを発言したのだと思う。私自身がそのような快感を実感したのは「立つ」練習を始めたここ数年である。野口整体は20年程前に習い始め、毎週の練習では弟子たちが互いに身体を整え合った。そこには少なからず快感はあったが、今「立つ」実践で感じる物とは質が違う。整体は「施術をする人」「受ける人」とわかれ、どうしても受ける人は「受け身」になりがちだ。依存心も少なからず起こる。「立つ」方は、自分でするものだから必然的に自立する。からだは自分で整えるものなのだ。たとえ誰かに手を当ててもらうにせよ、「自分で」という意識が根本になくしてはならない(そうすれば温泉以上の快感が得られるはずだ…快感は一つの基準であり、それを得るためにするのではないが)
 野口氏は、野口整体を志す人には「自分で」という意識を持つことを求めたのだと思う。活元運動はその手段だと思える。しかし、思うように伝わらなかったのではなかろうか。 

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あの夏のお兄さん

2016-09-04 16:10:26 | 
 小学四年生の頃だったろうか、夏のことだった。近くのアパートで独り暮らしをしている大学生(社会人?)が、私と弟(或は友人?)を市民プールまで連れて行ってくれた。車はどこからか借りて来たのかも知れない。特に親しかったわけでもないが、どうして誘ってくれたのだろうか。いくらヒマでも近所の子ども達をわざわざプールに連れて行くなんて、余裕がないとできることではない。ふっくらとした顔つきで、眼鏡の奥の細い眼はいつも優しげだった。プールでは子供たちだけで遊び、お兄さんはプールサイドでのんびりと寝っ転がっていた(一度も水には入らなかったようだ)。
 またある時、お兄さんは友人達とアパートの前の庭でバーベキュ―をして、焼いたものを持って来てくれた。
 
 時は過ぎ、私が新宿に近い「笹塚」のアパートに住んでいた頃、同じ階に双子の少年がいた。少年たちはユニフォームを着て時々野球をしていた。特に親しかったわけではなかったが、アパートを出る時に、彼らにバットをあげた。そのバットはジャイアンツで通訳をしていた時に、同期の選手からもらったものだ。
 何故、大事なバットを彼らにあげたのだろうか…
 あのお兄さんがあの夏に、小さな子供を連れて行ってくれた思いがボクの中に残っていたからかも知れない。

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