中学・高校での野球は「好きか嫌い」で答えられる対象ではなかった。野球の中にどっぷりと浸かる一方で、感情を抑圧して過ごしていた。学業や遊びなど他の世界に目を向ける余裕があれば、少しは違っていたのかも知れないが。
前に監督と選手の関係を国家と民の関係にたとえたが、親子の関係にも似ている。躾も野球指導も体罰は必要ではない。指導はすべて言葉でできる。その言葉の前には相手(生命と言ってもいい)に対する「思い(尊重・愛情)」がなければならない。そうすれば指導者は生徒(選手)一人ひとりを平等に扱うことができる。
監督と選手の関係は「親離れ子離れ」した親子のように、互いに大人として接するのが理想である。指導者は選手の間違いや危ういことをすぐに正すのではなく、選手が自分の力で考え、行動することを「待つ」ことだ。それが実現できないのは、選手が子供過ぎることも要因だが、監督が権力を持ちすぎていることも大きい。もし監督が自らの野心を実現するためにその地位についているとしたならば、選手は自立性を奪われて単なる駒のひとつになってしまうだろう。
私は性格的に「自由」を何よりも第一に考える人間である。自分の自由を奪う環境には激しく抵抗する。中学・高校で経験したことは、図らずも自分を知ることに大いに役立った。今回ここに書いてきた一連の文章は、自由を愛する性格の一個人が思ったことである。
最後に、同じ地面の上に仲間たちがいてよかった。思想に出会う前に。 【終わり】
前に監督と選手の関係を国家と民の関係にたとえたが、親子の関係にも似ている。躾も野球指導も体罰は必要ではない。指導はすべて言葉でできる。その言葉の前には相手(生命と言ってもいい)に対する「思い(尊重・愛情)」がなければならない。そうすれば指導者は生徒(選手)一人ひとりを平等に扱うことができる。
監督と選手の関係は「親離れ子離れ」した親子のように、互いに大人として接するのが理想である。指導者は選手の間違いや危ういことをすぐに正すのではなく、選手が自分の力で考え、行動することを「待つ」ことだ。それが実現できないのは、選手が子供過ぎることも要因だが、監督が権力を持ちすぎていることも大きい。もし監督が自らの野心を実現するためにその地位についているとしたならば、選手は自立性を奪われて単なる駒のひとつになってしまうだろう。
私は性格的に「自由」を何よりも第一に考える人間である。自分の自由を奪う環境には激しく抵抗する。中学・高校で経験したことは、図らずも自分を知ることに大いに役立った。今回ここに書いてきた一連の文章は、自由を愛する性格の一個人が思ったことである。
最後に、同じ地面の上に仲間たちがいてよかった。思想に出会う前に。 【終わり】