気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

裏山散歩⑬

2012-12-31 13:39:03 | 風景・自然

 ここに住んで8年、その山道も時々通っていたのだが、初めてそこで「マンリョウ」を観た。「マンリョウ」は控えめな性格なのか、「ナンテン」や「センリョウ」と違って、実を葉の裏側に隠すように付ける。

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 「マンリョウ」のある場所は、家に帰るには少し遠回りになるのだが、ついつい足を伸ばしてしまう。ただそれを眺めるために・・・

 「ヤブコウジ」は別名「十両」とも言い、背は低いが実は一人前の大きさだ。

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 この筆のように柔らかい綿毛は何なのか?人に尋ねてみると、「コウヤボウキ」ではないかと。

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 開くとやさしいピンク色。

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 2012年の最後の一日が、終わろうとしている。明日になったと言って、バッハを聴かなくなるわけでもないし、ウイスキーを飲まなくなるわけでもないだろう。

 今、私の眼前にある無数の木々は、私の知らないところで、芽を出したり、葉を落としたりしている。私も自分の中にある木々の声に耳を傾け、何かを落とし、何かを作りながら生きていくだろう。


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう③

2012-12-27 16:42:44 | 中国

 我々は河西回廊」に沿って、敦煌から「嘉峪関(かよくかん)」を目指した。途中「安西(アンシー)」で一休みした。「安西」は中国一風が強い所と言われていたが、沙漠だったらどこでも遮るものがないから、いつでも風が吹いている。

 「嘉峪関」は、万里の長城の西の極点である。当時、東の極点は「山海関」で、Lちゃんは両方とも行ったと自慢していたが、2009年に「遼寧省・虎山」が最東端となった(Lちゃん、残念!)

 嘉峪関は高い城壁で囲まれ、その上の通路を歩くことができる。

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 観光名所の北京・八達領などは立派な城壁だが、西は低い土塀である(写真・砂漠の中に城壁が続いている)。

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 既に用を成した長城は、中華民族にとって「誇り」をもたらすだけではあるまい。確かに(日本の国土よりも)長い長城を築き上げることは人類初の出来事で、こんなに大規模な建造物は他に類を見ない。しかしそのスケールは、そのまま遊牧民(匈奴など移民族)への恐怖の大きさを現しているのだから・・・

 

酒を飲まないLちゃんと、「酒泉駅」 

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 「酒泉」には、酒の味のする泉の伝説がある。本当にそんな「酒泉」があれば、「陶淵明」もこのような詩を書かなかったに違いない(白石拙訳)。

  但恨在世時(ただ恨めしいのは、生きている時に)

  飲酒不得足(思う存分酒を飲めなかったことだ)

 酒泉から「蘭州」を経て、「西寧」へと旅は続く。


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう②

2012-12-20 11:11:45 | 中国

 敦煌はかつて「沙州」と言われたように、沙(砂)の中にある街だった。風が吹くと沙が舞い上がり、街全体が黄色く染まった。

 さて、我々は郊外の観光地である「鳴沙山」に行くことにした。レンタル自転車を借りてポプラ並木をひたすら走った(道の真ん中でポーズを取るLちゃん)。

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 鳴沙山にはイメージ通りの美しい沙丘が拡がり、空の青と、砂の黄色のコントラストが鮮やかだ。そこで私たちを待っていたのは、観光客用のラクダだった。「月牙泉(げつがせん)」まで乗ってみることにした。ラクダは背が高いので、足を折り曲げて、しゃがんでくれないと乗れないのだが、ラクダ使い(?ラクダを操る人)が何度も「坐(ツオ)!」坐(ツオ)!」と叫んでも一向に坐ろうとしない(写真はようやく乗ったところ。馬やロバと違い、このふてぶてしい顔もまたイイ)。

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ラクダは気まぐれな動物らしく、一度道端の草などを喰い始めると、いくらラクダ使いが叱咤しても動こうとはしない(遥か昔から東西を結ぶシルクロードを旅した駱駝の末裔はプライドが高いのだ)。あっちこっちで道草を喰い、我々の存在などすっかり忘れ、最後まで自分のペースで月牙泉まで歩いた。

 月牙泉は、沙の中にある「三日月型」をした池である。エメラルドならぬ翡翠色した水は美しく、また貴重である。ラクダも水を飲みに行くときには道草をしないようだ。

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 「莫高窟(ばっこうくつ)」は敦煌最大の名所だ。そこには数百の洞窟があり、そのひとつ一つに壁画や仏塑像が安置されている。莫高窟には見学コースが2つあり、少数見学コース(10箇所程度)と多数見学コース(40箇所程度)がある。文化・歴史に知識のない私たちは、安易に少ない方を選んでしまった。数年後に知った(本の写真で観た)のだが、第158窟には大きな臥仏があり、それはそれは美しい表情をしていた。おそらく当時でも、この窟は見学はできなかったに違いない。それでもその存在を知っていれば、その窟の重い扉の前に、立ったことだろう(木々の向こう側が莫高窟)。

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※ Lちゃんよりメールがあり、長距離バスに関してひと騒動あったことが書かれていた。私はあんまり憶えていないのだが、面白い話なので紹介したい。

 バスが目的地に到着し、我々はそこで途中下車した。荷物はバスの屋根に積んでいたので、てっきり荷物はバスの関係者(運転手?)が降ろしてくれるものだと思っていたら、バスが発車してしまい、慌てて走ってバスを追いかけ、事なきを得たという。 


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう①

2012-12-13 15:34:16 | 中国

 先週書いたように、1987年(厦門大学留学中)に友人のLちゃんと中国を旅したのだが、実は始めは二人で行く予定ではなかった。経緯は・・・

 私が旅の計画を立てていた頃、Lちゃんは北京に遊びに(彼女に会いに?)行っていて、いつ厦門(アモイ)に戻ってくるのか分からなかった。私は彼の動向に関係なく、一人で旅に出ようと準備を進め、いよいよ明日出発という時に、Lちゃんから長距離電話が来た(当時、長距離電話をかけるには、電話局など決められた場所へ行き、申し込み、長い間待たされ、ようやく通じるという具合だった)。

「俺は今、上海に居て(ガールフレンド達とワイワイやっていて?)、明日厦門へ帰るから~」

私は咄嗟に彼を旅行に誘うことにした。

「俺は敦煌に行こうと思って、明日汽車で上海(36時間程かかる)に行くんだよ。一緒に敦煌に行かない?」

彼は既に 上海→厦門 の汽車の切符を購入していた(当時中国で汽車の切符を取るのは大変だった)こともあって、返事をシブっていた。次に私が何を言ったのかを忘れていたが、彼はしっかりと憶えていた。

「今、敦煌では『敦煌』っていう映画(西田敏行主演)の撮影をやっていて、女の娘が沢山押し寄せているらしいよ~」

その一言は彼の意志を変えるのには十分だったらしく、即汽車の切符をキャンセルし、一緒に敦煌を目指すことになったのである(結果から先に言うと、敦煌では女の娘など一人も見かけることなく、ツアーで来ていたおじさんがロバに手を伸ばしていただけだった)。

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 上海でLちゃんと待ち合わせ、復旦大学で顔見知りの女の娘たちと再会したのも束の間、翌日には 上海→ウルムチ 行きの汽車に乗り込んでいた。寝台などいつ取れるかわからないから、とりあえず「座席」で乗って、後で寝台が空いたら移動しようと考えた(車掌にその旨伝えておいた)。運良く途中から寝台へ移ることもできて、無事に最初の目的地「敦煌」の最寄駅である「柳園」に着いた。記憶が曖昧だが、深夜に駅に着いたのではなかったか。駅近くの安宿で、敦煌行きのバスが出るまで数時間休んだ。

長時間の汽車の旅を終えて、宿でくつろぐLちゃん

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 バスは窮屈でとても衛生的だとは言えないが、若いからなのか、性格なのか、こういうことが全く気にならないのである。

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 バスの屋根の上には乗客が預けた荷物が山のように盛り上がり、アヒルまで載せられてガァーガァー鳴いていた。

 

 それにしても、あの時、もし電話が無かったら、一緒に旅することもなく、彼はそのまま厦門に帰り、私は一人で出かけて行ったのである。彼は 上海→厦門 の汽車に乗り、私は 厦門→上海 の汽車に乗り、互いにそれを知ることなく、汽車はどこかの村ですれ違っていたに違いない・・・面白いな~と思う。[つづく]


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友は自転車に乗ってやって来た

2012-12-06 11:37:38 | 中国

 14年ぶりに友と再会した。

 14年ほど前に、ちょっとしたことで彼とケンカのようになり、長い間、連絡は途絶えていた。彼も私も頑固でねじれている(野口整体でいう「ねじれ体癖」・勝負にこだわり、譲らない)ので、これだけ時間がかかったのかも知れない。

 二週間ほど前に、彼から突然手紙が届いた。なんでもインターネットで何かを検索(私を探していたのではなく)していたら、たまたま私のホームページにぶつかったので、連絡をくれたという。

 待ち合わせの店で、私は入口に背を向けて座っていた。髪の薄くなった私を直ぐに見付けてくれたのは、やはり少し髪の白くなったLちゃんだった。変わらないものが観えるのが友なのかも知れない。澄んだ眼と歩くと猫背になる姿勢、、そしてクダラナイことを話すときのニヤケた顔は、26年前、出会った頃と変わらない。

 

 彼とは1987年に、1ヶ月ほど中国各地(敦煌・成都・昆明・・・)を一緒に旅をした、いわば同志である。今後気が向いた時に、その旅の様子を紹介するつもりだ(写真は敦煌。Lちゃんの写真を掲載すること、本人快く承諾)。

L

 


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