気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「我は去る也」について

2014-09-27 08:41:06 | 野口整体

 ホームページを新しくした時に、野口晴哉氏の遺稿「我は去る也」について解説した文章をなくしてしまった。なくしたことは惜しくはない。再びそれを読み「感じれば」よいのだから。

 「我は去る也」は、一方から見れば、「心」と「技」を人に伝えることに失望した書である。
 「伝え授けることむづかしき也」と野口氏にしては珍しく嘆いている。

 しかし、絶望はしていない。

 「体験を増やし 交換し 我が伝えしこと 授けしことを会得せば 次を伝える也」

 「次」があるのである。

 「五千年か一万年経し頃 又帰る也 又伝える也」

 その頃に私たちは生きてはいないが、野口氏が再び誰かにその「心」と「技」を伝えることを想像すれば、嬉しくもなってくるのだ。

 「死んだ人がどのように伝えるのか」何て質問は、禅の公案の答えを先に尋ねるようなもので意味がない。自分なりに答えをさがして行く過程が大事だ、ということを野口氏は伝えたかったのだ。


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名曲を勝手に解釈する⑮

2014-09-19 08:44:32 | 音楽

 谷山浩子の「カントリーガール」は定番のストーリーだが、4番まである「さび」が全く変わらないことが、変わって行く少女のココロを浮かび上がらしている。

 「にぎやかな都会の景色は 変わる万華鏡」

 「いつでもきみを驚かせる 七色プリズム」

 「都会の景色」が変わっていくのではなく、自分のココロが変わっていく。万華鏡の絵柄が変わるのも、プリズムの光線の色が変わるのも、自分の観方によって変わっていくのだが、本人(彼女)は、そうは思ってはいない。

 「おふるのスカートはじらうよう」な人は、往々にして

 「長い煙草を きざにくわえた 若い男」のことを追いかけ、

 「たった七日目」に捨てられるのだ。

 

 この歌の主人公は、

「はじめから終わりまで きみを見ていた」

「真赤なルージュ そっとひいてみて すぐにふきとったのも」

彼女が恋をしてウキウキしているときも嫉妬することもなく、捨てられることがわかっていても、何の助言もすることもなく見守っていた男が、最後になってようやく登場する。

「ぼくが書いた あの手紙の言葉をもう一度きみに贈ろう」

ここで初めて1番の歌詞は、実は彼が書いたのだということがわかる。

4番まであるこの歌のさびはすべて同じである。

「カントリーガール きみの目の中で 夕焼けが燃える

カントリーガール きみのほほえみは 草原のにおいがする 好きだよ」

すべて同じ歌詞を並べたわけは意味の強調ではなく、彼女が、ココロの成長と共にどのように受け止め方が変わっていくのかという定点観測である。

1番では、主人公にそう言われても彼女のココロには響いていなかったが、4番になって初めてそれがわかるようになる(歌詞には具体的には書かれていないが)。もちろんそれは2番・3番の経験によって、彼女の感受性が変わったからである。

4番が1~3番までと違って力強く歌い、演奏されているのは、彼女のココロに迷いがなくなったことを現わしている。

 傷つかないと大人になれないのは、少女だけではないだろう。


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辞書という師

2014-09-12 12:01:09 | 

 「今までに手にした回数の一番多い書物は何か」と問われれば、間違いなくこの「中日大辞典」と答える。

20140912_1

 厦門大学に留学した時に、ギターの師匠であるGちゃんからもらったもので、以来30年ほど手元にある。北京に留学した時にはよく引いた。すべてのページに「引いた跡」が残っている。部種別検索の数字、例えば「?(にんべん)」は22、「木(きへん)」は94、などは今でも覚えている。

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 辞書は理想的な「師」である。こちらが困って必要な時にいつでも応えてくれるが、その説明は多すぎず少なすぎず、適当である。体育会系の指導者のように熱くならず、淡々と紳士的である。無償で指導をしながらも、見返りを期待することなく、あくまでも謙虚である。

 最近は「電子辞書」なるものがあるらしいが、果たして私が(上記の)辞書に対して抱くような愛着を、それに持てるだろうか。紙の質感や重量感、或は匂いがなければ、難しいだろう。


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渓流竿でウナギ

2014-09-06 09:04:16 | 渓流・鮎釣り

 25年ぶりに多摩川に釣りに行った。小学校の同級生から「ウナギがいるかも」という情報を聞き、試してみたくなった。

 以前その場所で鯉やナマズは釣ったことがあるが、ウナギが掛かったことがない。前日に山で元気なミミズを捕まえ、仕掛けを作った。一般的にはリールで投げるらしいが、私は使い慣れた渓流竿でやってみたかった。糸は1号の通し(ハリスなどは使わない)で、がん玉2B~4B、針は本流ヤマメ用の7号かマス用の8号。

 

 夕方5時頃に現場に到着。おじさんが一人と、対岸に若者が一人、二人ともリール竿だ。私も水辺に立って糸を放つ。ついつい渓流のつもりで、流れに合わせて竿を流してしまうが、果たしてこのような釣り方で良いのだろうか、甚だ疑問だ。ウナギは川底にいるらしいので、餌のミミズを沈めて流してみるが、全く反応がない。針が「根がかり(底の障害物に引っ掛かる)」してしまう度に、新しく針を結ぶから、糸がだんだん短くなり、仕掛けも新しいものに変えなければならない。

 暗くなり出してから、いきなり大きなアタリがあった。グングングンと強く引っ張られたので、咄嗟に竿を止めてしっかり針掛かりするのを待った。しかし無情にも針は切られてしまった。思わず声が出るほどの強い「引き」だった。いったい魚種は何だったのだろう。大ヤマメに似ていたが・・・その後近くの場所で速いアタリがあり、合わせる間もなくミミズだけを取られた。

 

しばらくして「根掛かり」したかと思い、竿を上げようとしたら、重たい・・・その「重さ」が動き出した。経験したことのない「ひき方(動き方)」。生き物だと確信したが、この時点では何だか分からない。竿を挙げてそれを水面に引き出すとくねくねしている・・・ナマズよりは細身だ。もしかしたら「ウナギ」では!?ココロをときめかせながら、慎重に取り込んだ。

20140904

小学校に上がる前、木更津の近くに住んでいた。父親が時々ウナギを釣ってきては 、まな板にウナギの頭を釘で打ち付けて、捌いていた。味は憶えていないが、まな板に残されたウナギのアタマがいつまでも生きていて、口をパクパクしていたのを憶えている。


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