『うまく生きよう』なんてことは、次の次の話です。まず『動くこと』です。心臓が打ち、血液が流れているのは、将来うまく生きるためではなく、今、この瞬間を生きるために用意された環境なのです。大事なことは、今、『すること』です。行き先がわからなくても、歩けます。
言うまでもなく社会での上下関係、身分制度などは人が作ったものです。ですからあまりに酷いと、本能的にそれをオカシイと感じたり、反発することもあります。
気気はそんな本能の欲求を満たします。
『手』は時と場合によって色々な使い方をされます。茶碗を持つ、包丁を握る、ボールを投げる、ペンを持つ・・・
人を殴る、というのは良い使い方ではありません。
手を合わせて祈る、というのは美しい姿です。
私が思う一番よい使い方、それは『ただその人に触れる』です。
現実社会を大きく変えて、理想国家の建設を目指している人もいますが、私は現実社会に沿ってを少しずつでも良くしていく方法を考えたいと思います。現実を否定していくのではなく、受け入れがたい現実はあるものの、基本的には現実を受け入れ、その現実に乗っかった方法の方が、人々が受け入れやすいのではないかと思います。
多くの人が国を良くするために色々な方面からの色々なことをしています。政治・経済・宗教・文化・芸術・地域・・・からのアプローチ。
私はそれらの分野は素人であり、発言するには及びません。私は気気という手段で、人と人の一対一の関係から人のあり方を見直して行きたいと考えています。一対一の人間関係がしっかりとできないから、結果的に世の中が乱れるのではないかと思います。気気は人を否定するのではなく、はじめから認めていきます。気気は道徳的な理想を説くのではなく、実践を通して、理想へ少しでも近付きます。大それたことを言うようですが、私は気気が広がっていけば、少しでも世の中の雰囲気がやさしくなるのではないかと思っています。
列子(中国古典)の中にある 『愚公移山』の精神でいきます。
人のココロはコロコロ変わる。恨んで『コロしてやる!』と思っていても、いつしか忘れてしまうこともある。失恋して、絶望しても再び恋をする。無常ですから。だから彼女の名前を腕に刺青すると、後で後悔するのです。
とは言っても『無常』を『無常』のままにとらえることは、現実的には無理な話です。人は期待や観念を持ってしまいますから。
もちろん気気をしても『無常』の考えを実践できる、ということはありません。それでも、その(無常の)方向へ少しでも向かうきっかけには成り得ます。
それで、ほんの少し、生き易くなれたら良いと思いませんか。