goo blog サービス終了のお知らせ 

気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

ブログを引越しました

2025-07-29 13:01:36 | 透明を観る
長らく使わせていただいた「gooブログ」が今秋でそのサービスを終了するということになりましたので、「はてなブログ」に引っ越しいたしました。
このブログは9月頃に閉鎖するつもりです。
引き続き、よろしくお願いいたします。

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野口晴哉の「理解」

2025-02-18 14:48:50 | 透明を観る
「野口晴哉著作全集2」の「語録二」を読んでいると、「理解」という言葉に頻繁に出会います(以下抜粋)。

理解は確信の道なり
理解より悟入したるが 真の確信なり

理解なき希望は空想に過ぎず 成就することもなし
成就するも 理解伴わなければ成就ではない

真に理解あれば 不幸不運避くることなし

自己の為したることを悔ゆるは
自己を真に理解せざるが故なり

理解は迷いを去らしめ
悟りを開き
之を確信の境に導く

理解の伴わぬ治療は 真の治療ではない
されど理解は自づから生ずるが尊し

忘却は理解の究極なり 理解の究極は忘却なり
理解を忘却して理解するは 之 真の理解なり


 野口氏はここで、具体的に何を「理解」することなのかを言っていません。それは整体指導者や真の健康を目指す人が、知らなければならないことです。病気とはどういうものなのか、健康とはどういう状態をいうのか、生きるとはどういうことなのか、自分とは何なのか、自然とはどういうことを言うのか・・・こういうことを理解するということは、知識として覚えるものではなく、生き方を通して裡から生じるものです。

 *お知らせ
 これからしばらくブログを休みまして(期間未定)、「ブルースカイ」というSNSで「透明を観る」の紹介をします(旧TwitterのXにも同様の記事を載せる予定)。よろしくお願いいたします。




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透明の変化を指で感じる②

2025-02-01 07:42:36 | 透明を観る
 前回の続きです。
「透明を観る」をしても、まだ身心が整わないことがあります。背中の観察をしてみると、まだ筋肉が凸凹していたり、「何か」が指先に伝わってきたりします。そういうときには、指をその気になるポイントに当てたまま、「透明を観る」をします。「その場処が透明になっていないから、こうしてまだ残っている」と考えます。そこをピンポイントで「透明」だとイメージするのです。手を当てている人も受けている人も、どちらもそう考えます。1箇所20〜30秒くらいで十分です。「気」というものを「物」とだけ考えている人は、とかく長い時間手を当てたり、受けたがりますがそうではありません。「気」は物理的な面もありますが、「質」が大事です。身心一如の人が、意識すれば即カラダが変わるような、そういう「質」です。それは意識(認識・イメージ)によって作っていくものです。

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「透明」の変化を 指で感じる

2025-01-26 07:26:03 | 透明を観る
 「透明を観る(イメージをする)」ことによって身心が変われば、本人は良くなったことを直観的にわかります。より具体的にわかるために、教室では野口整体の技術を使って背中の観察をします。背骨に沿って両手を滑らせて、筋肉の状態を観ます。筋肉の凸凹や、伝わってくる感覚を指先で感じ取ります。「透明を観る」の前後に観察をして、もし変化があるならば、それは「透明を観る」の影響であると考えることができます。感覚の鈍い人は、身心が変わった自覚を持てないことがありますが、他人が観ると、背中が変わっていることは良くあります。実感がなくても、変わっていることはあるのです。続けていけば感覚が磨かれて、いずれ自分でもわかるようになります。
 寝る前に「透明を観る」を行えば、あくびが出たりして、眠りやすくなります。

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「尽人事以听(聴)天命」について考える

2025-01-15 19:22:08 | 
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。多くの人が座右の銘にしているとのことですが、私は使ったことがありません。元々中国の言葉だったということなので、中国のサイトで引いてみると、中国語では「尽人事以听(聴)天命」と書き、次のように訳されていました。

「个人只要尽心尽力去做事,成功与否听凭上天安排。」
 人が全力でことにあたれば、成功か否かは天の計らいに委ねることができる(白石拙訳)。

 訳文にある「只要」には「〜しさえすれば(すぐ)」の意味があります。それよりも「只有(〜してはじめて)」の方が良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。全身全霊で事に当たることは簡単にできることではないからです。

 思い違いかも知れませんが、日本語でこの言葉を耳にするとき、「結果がどうなろうともすべて受け入れる」というよりも、「これだけ努力をしたのだから、良い結果が出るのではないか」という期待があります。中国語の方は、「できるだけの努力をすれば、結果がどちらでも良いという(天に委ねる)気持ち」になれる。結果よりも「結果がどちらでも良いという気持ちになること」に、重きを置いている。
 
 「尽人事(人事を尽くす)」とは、人が事の中に入り込んで没頭してしまうことです。そのとき結果はもちろん、天命さえ意識しない状態になります。そういう意味では、下のような言葉があったとしても悪くはないでしょう。
 
「尽人事以忘天命(人事を尽くせば 天命を忘れる)」
 
 天命を軽んじているのではありません。天命は外から来るのではなく、裡から湧き上がるものです。外に天命を探し求めるのではなく、自分の裡から出て来るように、「人事を尽くす」のです。


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