気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

みぞおちを弛めるだけで変わる

2019-06-30 07:51:40 | 「立つ」健康法
 野口整体には「活元運動」という自己調整法がある。「活元運動」を導くための準備運動が3つあり、最初に行なうのが「邪気の吐出」というみぞおち(鳩尾)を弛めるものである。私はこの「邪気の吐出」が他の準備運動だけでなく、活元運動そのものよりも大事だと思っている。それは活元運動よりも重要だということではなく(活元運動をしなくても)みぞおちを弛めるだけで、からだはずいぶんと変わるものだからである。
 といっても、私自身は「邪気の吐出」をあまりしない。何故なら「キチンと立つ」練習の中で、みぞおちを弛めているからである。普通、「邪気の吐出」は正坐をして両膝を開いた姿勢で行なう。みぞおちを指で押しながら、からだを前に倒し、息を出し切り、脱力する。しかし、からだを起こした時や坐っている姿勢は、立っている時と比べて腰や脚に力が入る。力を抜き、からだを整えることを目的とする時、その力は私にとっては少し余分な力なのである。人によっては腰や脚に力の入った方が良いということがあるかも知れないが、私の場合は立ちながら、みぞおちを弛めた方がやりやすく、からだ(全身)がよく変わるのである。

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自分らしくなるために「力」を抜く

2019-06-22 10:17:46 | 「立つ」健康法
 20代の頃、自分で作った歌を録音して聴いてみると、なんとも言えない感じがした。それは自分の声を客観的に聴いたからではなく、また下手だからというわけでもない。同様に、中国語を録音して聴いてみても変な感じがした。そのときには分からなかったのだが、「力」が入っていたのである。無意識に余分な「力」を入れていた。
 日常生活では少しくらい力が入っていても支障はなく、力が入っていることに気がつくことは稀だ。しかし力が入っていると、各方面において実力を発揮することができない。惜しいことである(20代の私に力の抜き方を教えてあげたい)。
 「力が入っている」ということは、本来の身心の状態ではないのだから「自分らしくない」ということができる。それが慢性になったり過ぎれば、正常な思考・判断ができずに、好きでもない仕事をしたり、不本意な生活をしかねない。
 力の抜けた身心の状態が「本来の自分」なのである。私は「本来の自分」からの「ズレ」を調整するために「キチンと立つ」ことをしている。

 余談。一昨日、今季4回目の鮎釣りで初の「つ抜け(10匹超)」。初心者の域を抜け出せず、下手さを自覚しているから、数匹釣れるだけでも本当にうれしいのである。


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一体感

2019-06-15 10:01:21 | 「立つ」健康法
 「キチンと立つ」練習をして、からだが整うと、からだが一つに感じられる。いわゆる「一体感」がある。普段のからだは腕は腕、足は足と分かれている感じがする。五体という言葉もそうだが、身体各部に名称や意味があるから、いっそう分かれて感じられるのだろう。
 誰でも鏡を見ればからだがつながって見える。しかしからだが一つにに見えるからといって、「一体感」が得られるわけではない。「一体感」は、言葉や意味よりも先に身体感覚でとらえるものなのである。アタマの理解だけでは分からない。私の場合は「キチンと立つ」ことによって、それが分かった。「一体感」は最終目標ではなく、からだが整う過程でそう感じてしまうものなのだ。
 私のしている「キチンと立つ」練習は、坐禅のように厳しいものではない。イメージを使って力を抜き、常識や観念を外すだけである。すぐに習得できるものではないかも知れないが、やってみれば初心者でもそれなりに身心の変化が分かるものでもある。

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雑念が湧いて来ない

2019-06-08 07:51:07 | 「立つ」健康法
 「鳩尾(みぞおち)」を弛めると、全身の力が抜けていく。ほとんど自覚できないほど力が抜けると、大袈裟なたとえだが「透明人間」になったような感じがする。意識はあるが肉体を感じない。そういう状態になると、普段の状態と比べて雑念が減り、欲が出て来なくなる。雑念や欲はからだの状態(力が抜ける)と関係があるのである。
 私たちは、欲を減らしたいと思ったり、穏やかに生きたいと願うが、意識だけを対象にして改革しようとしても無理がある。意識はからだとつながっているから、からだも整える必要がある。からだが変われば意識も変わるのである。
 からだが整うと、力が抜けるだけでなく、整った現状に「満足」する。「満足」すれば、「それ以上のもの」を求めないから、欲が減るのは当然である。からだに対する満足は自己の肯定につながっていく。自分を肯定することは、意識的にできることではない。他人の評価や数字(成績)に依るものではなく、自然に裡から湧いて来る思いに肯定されるのである。

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「構え」は外すのではなく、外れる

2019-06-01 09:13:40 | 「立つ」健康法
 20年くらい前、野口整体の師に「君には構えがある」と言われた。「構え」とは、自分を他者から守ろうとするハタラキである。私は人よりも「構え」が強いかも知れないが、誰でも多かれ少なかれ「構え」はあるものだ。公共の場所や慣れない処では「構え」があって当然である。
 鳩尾(みぞおち)を弛めると、「構え」が取れて行くのがわかる。全身(頭から足の裏まで)が一気に変わる。頭は単に物理的な面だけでなく、意識(脳)も弛む。
 「構え」は自分を守ろうとする意識によって起こり、からだを硬くする。しかし意識を直接に変えるには無理がある。そこで「鳩尾」を弛めると、結果として「構え」が外れる。
 「構え」など持っていても自覚のない人がほとんどで、生活するにも特に問題はない。しかし私はその程度のものであっても「構えを取り外す」時間を持つようにしている。「構え」が外れることで、自分らしさが回復し、身心がよくなることが分かるからである。

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