気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

知識・技術の前

2021-01-29 10:45:44 | 「立つ」健康法
 臨済が「仏は私の話を聴いているお前だ」と言ったのは、自分以外に頼るべきものを無くすためである。たとえ仏であっても頼っていてはいつまでたっても自立できない。臨済は弟子に、地位の上下や能力の優劣がなく全てが平等に並んでいる世界を、そのままに観させようとしたのである。同様に野口晴哉も、自分自身の力でからだを整えられることを説いた。臨済も野口も、自分だけでできないことがあることを承知の上でそのように発言したのは、自身を信じて生きていくことが何より大事なことだということをわかっていたからである。たとえ能力が劣ろうとも、現在持てる力の全てでやろうとするところに初めて生きていく力が湧き、その人らしさが現れるのである。言うまでもなく知識や技術の習得は二の次である。学ぶ姿勢が転倒していては、本当のものが実ることはない。

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アタマから気へ

2021-01-23 09:06:49 | 「立つ」健康法
 「立つ」練習をするとき、アタマのモードを変える。物事を相対的に見るモードから、一つに見る「気」のモードへ。「気」というのは仮の名で、全てを一つにするものならば神でも道(タオ)でも自然でも何でもよい。この価値・基準の転換は、好みの変化などという小さな物ではなく、180°の大転換である。
 万物を一つに見ることが難しいのは、アタマは何でもすぐに分けてしまうからだ。そこで「気」である。「気」は全てに浸透し、分けることができない性質を持つ。言葉や五感を超えたところにあるのが「気」だ。試しに言葉(知識・科学)を使わずに物を分けてみればいい。分けることができないことに気がつくだろう。それはそのまま全てのものに共通するものとしての「気」を認めることになる。この「全てのものに共通するもの」があるという認識が、からだに大きな変化をもたらすのである。何故なら私たちは日常を、物がバラバラに分かれている世界だと思い込んでいるからである。
 問題は、如何にして「アタマ」モードから「気」モードへ転換するかということ。それは一朝一夕にはできないが、キチンと立つことから始まる。その後全身で呼吸をしている感じを得て、からだの質的均衡をつくる・・・と続けていけば、完全に「気」のモードにならなくても、からだの変化に気がつくようになる。

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「理想の立ち方を身につける会」 予定 2021年 1月

2021-01-15 08:46:51 | 「立つ」健康法
 子供の頃、一緒に遊ぶ友達の顔はいつも元気だった。年齢が上がってくると、自分も友達もいつも元気というわけには行かなくなったが、それでも友の良い顔を見たいと思っていた。
 
 現在キチンと「立つ」ことの紹介をしているのは、その人に一番その人らしい顔になってもらいたいからだ。それは子供の頃と同じように、ただその顔が見たいから、好きだからということである。
 キチンと立つことができれば、その人らしい顔、その人らしいからだ、その人らしいココロになる。

「理想の立ち方を身につける会」を1月17日(日曜日)に開きます。関心のある方は是非ご参加ください。詳細はホームページをご覧ください。


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からだのサイン

2021-01-07 16:28:19 | 「立つ」健康法
 野口整体では、みぞおちに硬結(硬い粒のような物)ができると四日後に死ぬと言われている。ストレスや怒りがあってもみぞおちは硬くなるが、それとは違う。みぞおちの硬結が死の四日前に現れるということは科学的に証明されてはいないのだろうが、多くの人を超人的な眼で観察してきた野口晴哉氏が言うのだから、十分に信じられる。
 しかし、死の予兆が現れるのはみぞおちだけだろうか。からだは一つであり、つながっているのだから他の場処にも現れることはあり得る。そしてそのからだの異変が意識上に伝わったとしても、自然なことである。身心を磨いていけば、死を察することができるのではなかろうか。死期がわかると言うことは、その予兆が出るまでは、なんの心配もせずにのびのびと生きられるということである。

 

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