気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

我流 自宅トレーニング③・・・日々「立つ」わけ

2020-04-30 10:18:46 | 「立つ」健康法
 一日の中で、寝たり座ったりせずに「立って」いる時間はどれくらいあるのだろうか。この四日間(4月26日~29日)、「立っている」時間を計ってみた。起床から寝るまでの時間は16.5~17.5時間。そのうち座っていたのはおよそ3・5~4時間。13時間くらい「立って」いたということになる。立っていたといっても、ただ立っていたのではなく、ほとんどは立ちながら他のことをしていた。散歩、家事、読書、テレビの視聴…そんな中で私は毎日「キチンと立つ」時間を作っている。それは、立ちながら行う坐禅・瞑想のようなものである。
 「立つ」練習が、ただ姿勢の矯正だったり、筋肉のトレーニングだけであるのなら、私はこんなに長く続けて来ることはできなかった。ココロとからだが、あるべき場所に落ち着く快感があるから「立って」いる。そこで感じられる世界は、閉じこもった自分だけの小さなものではなく、周りとつながった大きな世界である。こういう感覚は日常で実現されることはなく、身心を丁寧に調整していった結果として現れるものである。

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我流・自宅トレーニング②…「立って本を読む」

2020-04-25 08:00:39 | 「立つ」健康法
 前にも書いたことがあるが、私は家で本を読むとき、立ちながら読んでいる。理由は本の内容がよくアタマに入るからである。椅子に座ったり、畳に坐っているよりも、立っているときの方がアタマのハタラキがよいと感じる。アタマは、アタマだけで活動しているのではなく、全身の影響を受けている。筋肉や骨、神経や血管などでつながっているのはもちろんだが、そういう物理的な物とは違うものでもつながっている感じがする。それを「気」というのかも知れないが、今はこれ以上述べない。
 立ちながら読むとき、同じ姿勢でずっといるとからだを解したくなる。そんなときには片足で立ったり、からだを捻ってみたりするが、それは決まった動きではなく、自然に出て来るものである。意識的に行なうのは、「丹田の上下運動」。丹田は骨盤と連動する。丹田をゆっくりと上げていくと、背中はまるくなっていく。膝はやや曲がり、胸・頭は前側に倒れる。次に丹田をゆっくりと下げていくと、先ほどとは反対に背中は伸びていく。膝が伸び、胸・頭は起き上がる。これを数十回くりかえす。前提として全身の力を抜いた状態ですることが大事である。
 このようなからだの使い方、前後系の動きは、日常生活の中でそれほど多くはない(実は前後の動きはあるのだが、上半身だけを倒したりして、骨盤を使えないことが多い)。ここで腰をキチント前後に動かしておくことは、ぎっくり腰や腰痛の予防というだけでなく、(手足をバラバラでなく)全身をつなげて使うことをからだが覚えることになる。太極拳の「開合」も、丹田の上下の力を全身に伝えていくものである。

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我流・自宅トレーニング…「立つ」だけ

2020-04-17 10:49:31 | 「立つ」健康法
 昨今の事情により、家の中でできるトレーニング法を紹介している人が多いらしい。私自身は筋トレやヨガのようなことはしないが、毎日「立つ」練習をしている。「立つ」ことには運動的な効果もあるが、身心の状態がニュートラルに近づく(自分らしくなる)のである。方法は簡単だが、感覚に拠るものだから、ある程度できるようになるまで時間がかかる人もいる。
 
 イメージ(意識)をして、からだの感覚を感じながら次のように進めて行く。

 みぞおちを弛める→腹式呼吸→全身呼吸→からだの一体感→輪郭を消す→周りとのつながりを自覚…
 
 身心が変わるということは、感受性が変わること。日常の風景が変わる。
 関心のある方は、ツイッターをお読みください。

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荘子をからだで読む2

2020-04-11 08:33:35 | 「立つ」健康法
南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎。形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎。今之隱几者,非昔之隱几者也。」子綦曰:「偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎? 【斉物論】

南郭子綦が机に寄りかかって坐り、我を失っている(坐忘状態)。顏成子游がその前に立ち、「どうしたのですか。からだはまるで枯れ木のようで、心はまるで死の灰のようになって(心を消し、意識的なハタラキをしていない)。今ここで机に寄りかかっている先生は、先ほど机に寄りかかっていた先生とは別人のようです」。子綦は言った。「偃(顏成子游)よ、よい質問をするじゃないか。今まさに私は我を失っていたのだよ。それがわかったのだね」。

私がこの部分で、考えたことは二点。

①南郭子綦は、我を失う前に「我があった」からこそ、後に「我を失った」と言った。それは常に坐忘(物を一つに観る身心の状態)の状態にいるのではない(或いはできない)ことを示している。同時にこれは人が作り得る二つの状態の肯定である。二つとは、相対的に物事を観るもの(普段の私たちの物の観方)と絶対的な物の観方(物を一つに観る)。老子がいう二つの観方はそれぞれ「徼」と「妙」を観る。
 師の南郭子綦が我を失った(吾喪我)後、弟子とやり取りをしているが、この時南郭子綦の身心には先に述べた二つの状態が混ざりあっている。私たちはつい坐禅や瞑想などは静かな環境で行うことで坐忘やそれなりの効果を得て、目覚めた後は既にその状態ではないと思い込みがちである。しかし一度坐忘状態を作ってしまえば、しばらくそれは維持される。私は「立つ」練習でいつもそれを経験している(古の真人たちと同じレベルだと言っているのではない)。一度良い状態を作ってしまえば、会話や他の動きをしてもそれほどバランスは崩れない。だから南郭子綦が坐忘の状態を維持しながら会話をしていることがあったとしても何の不思議もない。

②「形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎」という処に「使」という使役動詞を使っていることは、我という主体が「からだ」と「心」をコントロールする位置にあるということを示している。自らが技術として坐忘を行ったことで、身心が変化したということ。私はここに人の介在する余地をみて、程度の差こそあれ人の「可能性」があることに嬉しくなるのである。

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荘子をからだで読む…脱力より解体

2020-04-03 09:59:16 | 「立つ」健康法
 荘子の「坐忘」について書かれた一文(大宗師篇)「堕肢體、黜聡明、離形去知、同於大通」は、「立つ」練習のときのイメージとしてそのまま使うことができる。
 みぞおちから全身の力を抜いていくと、次第に肉体的感覚が薄くなる(堕肢體)。目や耳の感覚に頼らない(黜聡明・相対的な考えを排する)。肉体がなくなれば(離形)、雑念が湧かなくなる(去知)。これが自然の道に適う生き方であり、「立ち方」である。
 
 スポーツや健康法などで「脱力」という言葉をよく聞くが、私はあまり使わない(初心者に説明するときやウェブ上では使うこともある)。なぜなら「立つ」練習に於いて、力が抜けるときの感じは、「脱力」よりも「解体」「くずれる」の方がはるかに近い(「墜」には「くずれる」と言う意味がある)。みぞおちを弛めた瞬間、全身の力は一気に抜けて行く。だからと言って、見た目には「ふにゃ」っとしたようには見えない(最低限必要な力は維持される)。むしろ崩れるのは、からだよりも意識の方である。意識はみぞおちを弛める時を境に、180度価値の違う別の世界へ行こうとするからだ。この意識の大転換は「解体(崩れる)」という言葉で表現されるにふさわしい。ダイナマイトで「ビルを解体する(崩す)」感じと似ていないこともないからだ。
 
 「齊物論」の「郭象」の注釈に「嗒然解體(我を忘れ、からだを解く)」とある。「解」には「ほどく」、「からだを煩いから解き放つ」という意味があり、「我を忘れる」ことは、日常の緊張(凝り固まった意識)から解放されることだ。その実際は普段とモードが変わる(先の180度別の世界へ行く)ことであり、それはただぼんやりとボーすることではなく、相対的な物の観方から絶対的な物の観方に向かうことなのだ。
 「(輪郭を)解体する」という言葉を、私はイメージの練習でよく使っていたから、この言葉を観たときに驚くとともに、我が意を得たりと嬉しくなった。


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