気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

ものをひとつに観る「快」は、幼い頃の記憶

2021-10-01 08:10:54 | 「立つ」健康法
 乳幼児は身の回りの人や世の中をどのように見ているのだろうか。もしかしたらそれは禅のものの見方(世界はすべてつながっている)と近いのではないだろうか。
 乳幼児は生後、授乳や触れ合いを通して、すぐに母親と父親の違いが分かるようになる。しかし乳幼児はそういう違いを認識しても、言葉を持たないから、名前や意味を使ってその違いを認識することはできない。それは我われ大人のように明確にものを分ける相対的な見方とは違って、区別をしてもその程度は浅く、人と人、物と物を完全に切り離すように分けてはいない。乳幼児は母親・父親の違いを感じながらも、根本ではつながっているものとして見ているのだ。「つながっている」といっても、必ずしもそれは物理的につながっていなくてもいい。概念で分けなければ、つながっているのである。人以外の物や景色も然り、無機質なテーブルや畳、遠くに見える山やサラサラ流れる川もつながっているのである。乳幼児は、両親をはじめ親しいものとそうでないもの、生理的に気持ちのよいものとそうでないものの区別をしても、「完全に別物」という認識はもたない。大元ではすべてが「つながっている」のである。矛盾した言い方に聞こえるかも知れないが、分かれていながらつながっているのである。乳幼児は自然にそのような見方ができるが、言葉を一旦覚えた大人がこういう見方をするのは、至難の技である。
 
 私が「立つ」練習で、ものを一つに観ることをめざすのは、幼い頃にそういう見方をもっていたからだ。乳幼児のときのその感覚を今思い出すことはできないが、言葉の世界にはない異質の「快」だったことには違いない。特定の愛情に包まれるような感じではなく、淡々とすべてがつながっている世界にある「快」。その「快」は言葉の獲得と引き換えに消滅したが、それを無条件に信じられるのは、今でも微かに残る感覚がそれを欲しているからだろう。






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