「透明なカラダを持っている」などと言えば怪訝な顔をされるかも知れません。しかし私はときどき、自分は「透明なカラダを持っている」と想像します。
カラダには色がついているのが普通です。顔の色・肌の色・髪の毛の色…。一旦それを置いておいて、以外に「透明なカラダ」があるとイメージします。
なぜそのようにイメージするかというと、そうすると「よい立ち方」ができるからです。自分にとって健康な状態になります。
なぜ「透明」かというと、「透明」は周りとぶつかることなく、つながるからです。たとえば自分が「透明」で、周りの人や窓や床なども「透明」だと考えてみる。そうすると、普段はバラバラなものが、つながってきます。色がついていると、それぞれが独立してしまうのですが、透明という共通があると、つながりやすくなるのです。
「色即是空(般若心経)」では、色(しき)とはモノのことで、空(くう)とは無(自性がない・個で独立していない)であり、万物は無だと言っています。それは何もないことではなくて、すべてが有るということ。すべてが有るということは、すべてがつながっているということ。しかし私たちの眼にはモノがバラバラに見えて、つながっているようには見えません。
つながっているように見ようと思っても、そう簡単にできるわけではありません。そこで「透明」のイメージをしてみると、少し「つながっている世界」に近づくことができます。
ここで注意したいのは、空(くう)が色(しき)より優っているのではなく、どちらも有るということです。般若心経では「空即是色」ともいいます。
「透明」という言葉をずいぶん使いましたが、ここで言う「透明」は一つの象徴です。もちろんイメージをするときに自分の肉体と同じ形を想像して、それを透明化してもよいのですが、具体的な形象を想像しなくても、「透明」という概念を持つことで、周りとつながることもできます。
「透明」なイメージ以外にも、「キチンと立つ」ことのできるイメージはあります。それは自分の中に「見えない(もうひとつの)何か」を想定して、それが周りのすべてとつながっているというイメージであればよいのです。